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ユーレカの日々 [36]「人形遣い」

大阪市が文楽に対する補助金を打ち切ることに決めたそうだ。橋下市長になってから補助金が減額されてきたが、今後は年間の補助金ではなく、公演など事業毎の申請、審査になるという。

大阪以外の人にとって、文楽というのがどう認知されているのかわからないが、大阪人にとってはそれなりに馴染みのある、地元の伝統芸能だ。

●大阪の伝統芸能「文楽」

文楽は、江戸時代にはじまった人形浄瑠璃、要は人形で演じるミュージカル。人形は1.2mほどで、人形劇の人形としては、大きな方だ。これを一体につき3名がかりで操演する。大きな特徴は、操演している人の姿が舞台上で見えていることだ。左手と脚を操作する2名は黒子、黒装束で顔を出さないが、頭と右手を操演するメインの操者は顔も出している。

操者の顔が見える人形劇、というのは一見、奇妙に感じるが、劇のドラマを楽しむというよりも、演者の芸を見て楽しむ、ということなのだろう。特に頭を操演する操者の動きは、人形の動きとシンクロする。まさに人間と人形が一体となって演じる様は、舞台芸術ならではの面白さがある。

演目は庶民的で「歴史物」「心中物」など。特に有名なのが近松門左衛門作の「曾根崎心中」だ。大阪梅田の繁華街には「お初天神」というゆかりの神社があり、大阪人なら文楽を見たことがなくても名前くらいは知っている。もっとも、実際に観劇するかどうかは別。ぼくは過去2回ほど観劇した経験があるが、それはたまたまそういうチャンスがあったからであって、毎年欠かさず見るようなファンではない。実演を一度も見たことが無い大阪人も多いだろう。

文楽には国も大阪府も補助金を出している。大阪市が補助金をカットするのは市民サービスや産業振興の方が手一杯で、文化事業に回せない、ということらしい。文化保護事業はどのレベルの自治体が行うべきか、という問題もあるだろう。大阪市が補助金をケチることがいいのか悪いのかは、ぼくにはわからない。それについて語ると政治の話になってしまうし、それを語れるだけの知識を持ち合わせていない。

それでも、ぼくにとってこのニュースは特別だ。なぜならぼくは「人形劇」が大好きだからだ。

●60年代生まれは人形劇世代

ぼくの世代にとって、人形劇は本当に馴染み深いものだ。言うまでもなく、NHKの人形劇シリーズを毎日のように見てきたからだ。

チロリン村とクルミの木、ひょっこりひょうたん島、空中都市008、ネコジャラ市の11人、新八犬伝、笛吹童子、プリンプリン物語、三国志…幼稚園に入る前から大学時代まで、リアルタイムで毎日、TVの人形劇を見てきた。こちらが小中高と成長するのにあわせて、より本格的なドラマになっていったので、結局大学に行っても見ることに。小学生の頃は学校はもちろん家でも自主的にペープサート(紙人形劇)をやっていたし、高校時代は劇団に所属して、ペープサート影絵をやっていた。

ひょうたん島に代表される幼年向きのものは、キャラクターのポップな造形が今見ても素晴らしい。Pixarの映画にも匹敵するクオリティだ。そして新八犬伝や三国志は人形の造形美と、骨太な大河ドラマで、人形劇を大人のものに取り返した。人形劇は子ども向けの物と思われているが、歴史を見れば絵本をはじめとする子ども向けのコンテンツはごく近代のもので、人形劇もまた、大人の楽しむものだったのだ。だからNHKの人形劇は、文楽の正当な後継者と言ってもいいだろう。

そして、もうひとつ。ぼくの世代に絶大な影響を与えた人形劇がある。イギリスのジェリー・アンダーソンによる「サンダーバード」や「キャプテン・スカーレット」といった「スーパー・マリオネーション」シリーズ。NHKの人形劇が基本、舞台中継的であったのに対し、ジェリー・アンダーソンは人形劇を映画的な表現に持ち込んだ。まずシーンとカットがあり、それに沿って様々な人形とミニチュアが作られ、撮影と編集を経て完成する。そういった意味では、人形劇というより人形映画なのだが、その精巧な操り人形は文楽の影響もあるという。

●世界の人形遣いたち

アメリカにはジム・ヘンソンが居る。おなじみのセサミストリートやマペットショーはもちろんだが、彼が大人向けに作った映画「ダーク・クリスタル」は、マリオネット、パペットはもちろん、着ぐるみ、機械じかけなど、ありとあらゆる人形操演テクニックを駆使した人形劇の到達点だ。登場するクリーチャーの多くは複数の人間で一体の人形を操演している。特に4本腕の種族「ミスティック」は二人羽織の要領で演じられており、文楽的だ。この映画の共同監督であるフランク・オズもまた、世界でもっとも有名な人形遣いの一人だ。クッキー・モンスターやミス・ピギー、そしてSTAR WARSでヨーダの操演と声を演じている。

CGが一般化する以前は、SF映画において人形劇のテクニックがとても重要な位置を占めていた。ジェームズ・キャメロンの「エイリアン2」でも、文楽的な人形が活躍する。映画のクライマックス、リプリーの乗り込んだパワー・ローダーは内部に人が入っており、それとワイヤーによる操演、さらにミニチュアモデルが組み合わされてあの、リアルな乗用ロボットが表現されていた。その相手となるエイリアンクイーンもまた、内部に人間が二人入っており、外部からのワイヤー操演とあわせての演技。だからあのクライマックスの対決シーンは人形劇だったのだ。

フランスには、ちょうど来日公演中のフィリップ・ジャンティという人が居る。彼の劇団が演じる、人形と人間が渾然一体となった舞台劇のイマジネーションには本当に驚かされる。過去3度ほど観劇しているが、あの時空に呑み込まれるような浮遊感はアニメや映画では表現できない、舞台ならではのものだ。人間が人形に、人形が人間に。いつのまにか入れ替わったり、また、渾然一体となっていく。人形を操るのは、舞台の上の俳優たち。つまり、文楽同様に操演している様子ははっきりとわかる。彼は日本で1年間、文楽を学んだというが、その体験がこの不思議な舞台を生み出したのだろう。

やはりフランスには、ラ・マシンという人形劇団がある。彼らの人形はとてつもなく巨大だ。2009年に横浜で行われたパフォーマンスでは、15mの巨大な蜘蛛が街中をのし歩いた。彼らの人形は、複数の人間や、クレーン車などで操演される。こちらも文楽同様、演者は隠れていない。蜘蛛を支持しているクレーンも、それぞれの脚を操演している人たちも堂々と見えている。来日した時、見ることが出来なかったのが今でも悔やまれる。

これらどれもが、人形であることの面白さ、それを人が操ることの面白さに満ちあふれている表現であり、文楽の系譜にあることは間違いない。

●最新の映像技術も人形劇だ

さらにいえば、「アバター」に代表される、モーションキャプチャー技術を使ったCGもまた、人形劇の変形だろう。Pixarのアニメは、キーフレームを設定していく「アニメーション」だが、これに対し、モーションキャプチャーは実演だ。人の演技がそのまま、CGに伝わる「人形劇」的な考え方だ。実際、ジム・ヘンソンは、いち早くモーションキャプチャーに着目し、90年頃にはすでに、センサーを内蔵したマペットでCGを操演するということをやっていた。最終画面はCGになっても、それは人形劇なんだと感心した覚えがある。

そういえば日本のセルシスが発売している人型入力デバイス「QUMARION」は、全身にセンサーを内蔵したアクションフィギュアだ。これを動かすとリアルタイムにCGが動く。モーションキャプチャーには広いスタジオが必要だが、これなら狭い室内でもポーズのキャプチャーができる、というアイデアだ。現在はアニメーションのキーフレームのポージングに使う目的だが、操演用のモノがあっても面白そうだ。これらも文楽と同じ系譜にある、人形表現だ。

こうしてみると、文楽はけして、伝統で止まった表現技術ではないことがわかる。もちろん、文楽が直接、これらの表現の源というわけではないだろうが、文化の同じ潮流の中にある。その影響は現在の映画やゲームの中にも息づいているのだ。

●伝統芸能はなぜ、伝統芸能なのか

伝統芸能を誰が、どう守るべきか否か。難しい問題だ。

NHKの人形劇やサンダーバードなどが面白いからといって、じゃあ古典である文楽が同じように楽しめるものかというと、残念ながらそうはいかない。

「古くから残る伝統は、残す努力をするのが当たり前」という考え方と、「伝統に縛られるのではなく、アップデートすべき」という考え方は、芸能だけでなく、社会のあらゆるところに存在する。そもそも、古典と呼ばれるものと、現代的と呼ばれるものの違いはなんなんだろう。今、古典と言われているものも、発表当時は斬新な最新作だったのだ。歴史のどこかの地点で、保存と進化のふたつの道に別れてきたはずだ。

日本の伝統芸能の場合、明治の文明開化期に起きたカルチャー・ショックが何よりも大きかっただろう。鎖国によって400年も情報規制されていたところに、一気に海外の文化が流入すると、それまでの自分たちの文化が見劣りするように思えて、文化的な価値観が大きく変化する。この時点で、多くの日本の文化が失われたり、進化がストップした。

次のポイントは映画やテレビの登場だ。映像の表現は当初、舞台中継的な固定カメラが中心だったが、やがてカット割りや構図が独自に進化し、現在の映画表現ができあがる。その臨場感は、舞台劇とは異なるリアリティをもたらし、複製や放送という手段とあいまって、劇場での公演は特殊な文化になってしまった。それぞれの過程で、文楽に従事していた人の中からも、他の仕事、表現へとシフトした人たちもいただろう。

そうやって、古典は徐々に時代から取り残されてきた。取り残されても消えなかったものが古典になった。一旦、古典となれば、また別の意味が生まれる。

文化的な価値観は時代や場所で変化する。たいした価値がないありふれたモノが、後世に評価されたり、逆に価値があると言われていたものが、社会制度の変化によって価値を失ったりする。

だから、偶然であれなんであれ、現在残っているものはできるだけ、そのままの状態で次世代に残しておく必要があるだろう。だから文楽のような古典の演目を伝承保存することは、文化的な意味がある。世界中でこれだけ人形劇が存在するのだから、その古典である文楽には間違いなく価値がある。

しかし、「物」と違って、舞台芸術はだれかがそれを習得して、演じなくてはならない。物を保存しておくだけでは、映像として記録しておくだけでは保存にならない。古典芸能を伝承していくというのは、大変な労力が必要だ。

しかし、それらの古典的、伝承的な技術や価値観を保護伝承するだけでなく、現代的な表現に活かすこともできる。歌舞伎や落語、狂言では、古典をやりながら同時に、映画俳優やテレビタレントとして活躍する人たちがいる。交響楽の団員も、古典音楽しかやらない、ということはない。文楽でそういう話を聞かないのは、何か理由があるのだろうか。

そもそも、現代人が普段、文楽を娯楽として見れないのは、どういう理由があるのだろう?言葉がわからない、様式的だ、時代背景に興味が持てない、人形遣いの顔が見えているのでドラマに没入できない…文楽という表現はそんなに、現代では通用しないものなのだろうか?

そんなことを考えていて、ひとつ気がついた。あるじゃないか、文楽そのものと言ってもいい、現代も人気のある演目が。

それは「ガンダム」だ。

●ガンダムは文楽?!

巨大なロボットに人間が乗り込み、ロボット同士が戦うというフォーマットは、マジンガーZなどからはじまり、そこにパイロットの成長物語、イデオロギーの対決といった要素が加わって、ガンダムでひとつの完成形となった。未だに毎年、ガンダムをはじめ、類似するアニメがたくさん作られ続けているが、このフォーマット、考えてみれば文楽そのものだ。

ガンダムの戦闘シーンを思い出して欲しい。コクピットのアムロが叫ぶ、次のカットではビームサーベルを大上段に掲げて飛ぶガンダム。そこにアムロの表情が画面分割で挿入される。振り下ろされたサーベルを受けるシャアザク、そしてそのコクピットに居るシャアのアップとセリフ。ガンダムとシャアザクが睨み合い、それに呼応するようにアムロとシャアが睨み合う様子が挿入される。

ガンダムは意思をもたない。操縦しているのはアムロであり、アムロの心情は、ガンダムの動きとなって現れる。観客は人形であるガンダムとその操者であるアムロを同時に見て、ドラマを楽しんでいる。人形と顔が見える操者が一体となって演じる様子を見て楽しむのが文楽ならば、巨大ロボットとそのパイロットが一体となって戦うのを見て楽しむのがガンダムだ。

以前から、なぜ日本人はこんなにガンダム的なフォーマットが好きなのか不思議だったのだが、どうやら巨大乗用ロボットである以前に、昔から「人形遣い」が好きということのようだ。

日本人は人形そのもの以上に、人形を操る、という行為が昔から好きなのだ。精巧なからくりの人形に驚き、それを演じる様子に自分でもやってみたいと思い、上手く操る人に対して賞賛を送る。文楽の操者と人形は、ガンダムのパイロットとロボットに形を変えて、現代人に受け入れられているのだ。

●機動戦士ブンラク

文楽とガンダム、これほど似ている構造を持った表現である。文楽の操者がTVでガンダムをやるというのはどうだろう?

現在のような手書きアニメではなく、3DCGをフルに使った、実写がいい。人形劇は、アニメの台頭によって衰退した面があるが、3Dとモーションキャプチャ技術が実現している今こそ、人形劇のノウハウが復権する絶好のタイミングだ。

操者が操る人形をモーションキャプチャして、画面上のCGガンダムを動かす。そしてその操者が実際の役者として、ガンダムのパイロットも演じるのだ(もちろん若手イケメン)。本人が本当に操作しているのだから、迫力満点ではないか。

止まる時は止まる、動くときは動くという緩急を強調した日本独自のアニメ表現は、文楽や歌舞伎にみられる「見得」と共通した美意識だから、演出的にも親和性が高い気がする。

実際、今年シリーズ展開されている、「機動警察パトレイバー」の実写版を見ていると、ロボットの動きはやはり、人形的に見える。人間のようにロボットが動くのではなく、どこか、人が操っている不自然さが演出されているのだ。文楽とガンダム。冗談でもなんでもなく、かなり面白いものが見れそうな気がする。

●巨大人形浄瑠璃が見たい

映像ではなく、ラ・マシンのような、巨大ガンダムの実演も可能だろう。御堂筋の北端、阪急百貨店の前に18mの実物大ガンダム、南端の高島屋前にはシャアザク。これが御堂筋をのし歩き、本町で激突する!それぞれのモビルスーツはラ・マシン同様、巨大なクレーンで支持され、20人がかりで操演されるのだ。そこにオーケストラと三味線の混成楽団の演奏が付く。マシンガンが火をふき、ガンダムはAパーツを切り離してコアファイターを離脱させる。大阪城方面からは黒い三連星が、靭公園方面からはガンタンクとガンキャノンが応援に駆けつける。これは見たい。見てみたい。これぞ21世紀の、日本が、大阪が誇る伝統芸というものだ。

●守ることと変化すること

ガンダムで操者に人気が出れば、当然、本職である文楽の観客も増えるだろう。操者をめざす若者も出てくる。ガンダム以外でも、そして人形操者だけでなく、演奏や太夫(語り)の方も、いろんな可能性があるはず。

ひょっとしたら文楽は古典専業でなければ成り立たない世界かもしれない。外野が知りもせずに何を言う、と言われればそれまでなのだが、フィリップ・ジャンティが文楽に弟子入りして、現在に至っているように、もっと色んな才能が出てくる余地は十分にあると思う。

古典を守ることに意味はあるが、そのためにも文楽関係者がもっと他の場面でも活躍してくれればいいと思う。古典と現代的なものを両立させることで、ぼくの大好きな人形劇がもっと面白くなると思うのだ。今回の補助金カットを機会として、文楽も、それ以外の人形劇も、もっと活性化してくれればと思う。

初出:【日刊デジタルクリエイターズ】 No.3791    2014/10/29

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