makion!log
ユーレカの日々[10] ぼくらの超能力
- 2012-03-29 (Thu)
- ユーレカの日々
iPhoneやiPadを使っていると、ふと、魔法のようだ、と思うことがある。一枚の板がカメラになり、本になり、通信機になり、メモになる。遠くにいる知人の動向を知り、明日の天気を予報する。CMじゃないが、まるで魔法か、SFの世界のようだ。
SFと言えば子どものころ、超能力というのに憧れた。ぼくが子どもの頃見ていたマンガといえば手塚治虫や石ノ森章太郎、そして藤子不二雄。人の考えが読めたり、口に出さず会話ができるテレパシー。そのものに触れずに物を動かすサイコキネシス。瞬間移動テレポート。予知能力プレコグニション。透視能力クレヤボヤンス。どれも超能力のオンパレードだ。マンガの中だけではない。テレビではユリ・ゲラーという超能力者がスプーンを曲げ、日本中の小学生がマネをして親に叱られた。考えてみればあの時代は魔法と現実がずっと混沌とした時代だった。
最近はSFよりもファンタジーの方が流行りだが、そこで描かれていることに大差はない。普通の人間の限界を超える能力の数々。
限界を超える能力といっても、スポーツモノのヒーローに対しては憧れは感じなかった。白土三平の忍者モノや、タイガーマスク、巨人の星といったスポーツモノでは、厳しい訓練が付き物だ。しかも、そうやって訓練してヒーロー的に強くなって相手に勝っても、とても辛そうで、痛そう。そういうのは嫌だ。
超能力っていうのは、「楽」というのが基本にある。身体を動かさず、モノを動かしたり、自分が移動したり。相手の行動や言葉に惑わされず考えがわかったり、壁を壊したりしなくても向こうが見える。どれも、他の手段でそれをするよりずーっと楽そう。怠け者であるぼくにとって、超能力というのは理想の能力だ。
昔のマンガはおおらかで、超能力というのはある日突然目覚めたり、誰かによって目覚めさせられたり、与えられたりするものだった。子どもたちはみんな、自分にその日が訪れるのを心待ちにしていた。
でも、そういうビッグサプライズなんていうものが訪れることはない、ということを、成長するにつれ、だんだんと理解していく。
そうしてなんとか大人になっても、夢想癖は治らず、SFや超能力や魔法のことを考え続けていた。そして、ある日、ふと、気がついた。
超能力者が居るのだ。身の回りに居るのだ。いや、自分もいつのまにか、超能力を身につけているのに気がついてしまったのだ。
それは、未来を予知する能力だ。
この仕事は失敗する、と直感する瞬間がある。この仕事はうまくいく、と確信する瞬間がある。なぜそう思えるのかはわからない。ある瞬間に、ボーダーを超えた、ということがわかるのだ。
そういえば、先生たち、先輩たちはよく、そういうことを言っていた。そこまでいけば大丈夫。そのままじゃ失敗するぞ。自分も歳をとるにつれ、そういうことがわかるようになってきているのに気がついたのだ。
なぜ、そんな実感があるのだろう?いつ、そんな事を感じるんだろう??
よくよく考えてみると、自分は日常的に、もっとその予知能力を使っていることに気がつく。
たとえば、水の入ったグラスを手放せば、どういうことが起きるのか、ぼくは知っている。石鹸で濡れた手でそのグラスを持っているのであれば、かなりの確率でグラスは落ち、床は水浸しになる。それはまだ起きていないことだ。起きていないことなのに、どうなるのかを知っている。
旅行の計画をたて、飛行機を予約する。その時期なら旅行に行けると思うから、そうする。まだ完成していないマンションを、一生かけて払わなければならないような金額で購入する。35年間の分割なら、自分の収入で払えると思うから、購入をする。
無謀なことは計画しない。できることを計画し、そのほとんどは、その通りになる。
もちろん、この予知能力は完璧ではない。だから予知ではなく、予想、予測と言われる。しかし、実際の未来と相当な近似値で当たるのだ。突発的で予想できなかったことが目立つから、未来は予知できないような気がしているが、実際は我々は毎日毎日、相当高い確率で明日や来週や、来年のことを予知し、トラブルを回避し、行動している。
予知能力が高い人がいる。低い人がいる。
たとえば子どもは、その行動の結果がまったく予知できないから、怪我をしたり、失敗をする。大人はかなりの確率で正確に予知できるから、あまり怪我や失敗をしない。
また、大人の中でも、先を読むのが得意で有利に行動できる人と、目先のことしか見えず、不利な行動しかできない人がいる。
この差はどこから生まれるのだろう?
子どもの頃、学生の頃、なぜ勉強をしなくてはいけないのか、ずーっとそれが疑問だった。元素記号や数学の公式、歴史の年号をなぜ覚えなければならないのか、学生の頃はその意味がわからなかった。
勉強の過程で、それぞれ自分の専門分野を見つけ、専門家になれば、その学習は無駄ではない。しかし、専門にしなかった勉強は無駄ではないのか?元素記号や微積分を社会に出てから一度も使っていない。これらの勉強は無駄だったのか?
ぼくが子供の頃は「勉強しないと偉い人になれない」なんて言われてきた。そんな面倒な人になりたいとは思わなかったけど、なんとなく、そうするものだと思って勉強をしてきた。でも、大人になって、ようやく、その理由がわかった。
勉強をする目的は、予知能力、超能力を身につけるためなのだ。
公式や年号を覚えていることにはほとんど意味はない。今やクラウドやGoogleが脳の記憶領域の一部として、憶えていないことの不利さを補ってくれる。覚えることが目的ではない。覚えることで、脳を鍛え、予知能力を身につけることが目的なのだ。
一つの行動がどんな波紋をよぶのか、社会システムや科学が人をどう変えるのか、人間はどう行動する動物なのかを歴史から知る。手を離せばグラスは100%落ちる、ということを知る。偶然に見える現象に理由があることを知る。数学や物理から、自然というものを理解し、それに対処できることを知る。
世界というものは偶然ではなく、あらゆる事象には理由がある。因果関係が存在する。小学校から大学卒業まで、16年かけて学ぶことは、一言でいえばそう言うことだ。無駄に思える暗記や数学は、その情報が役に立つかどうかではなく、論理的な思考に基づく未来予知ができるようになるためのトレーニングなのだ。
言うまでもなく、予知能力が高まれば、生きるのが楽になる。安全になる。楽しくなる。現代の社会は人類の予知の積み重ねの結果、できあがっている。当然個人でも、予知能力が強い人は、より有利に人生を送ることができる。なんだ、大人たち、ちゃんとそう説明してくれれば、もっと真面目に勉強したのに!!
そう気がついて、勉強したがらないうちの子どもたちに、この話をしてみた。
最初はなるほどと聞いていたようだが、最近は「その話、もう何度も聞いたし〜」とあまり相手にしてくれない。なんということだ、彼女たちは超能力が欲しくないのだろうか?
まぁ、考えてみれば自分もそうだった。そもそも若い頃は、予知能力が未熟だ。「勉強しないと予知能力が身につかないぞ」と大人から言われても、自分の間違った未来予知に従ってギターをかき鳴らしたり、夜中にバイクで走ったりしてしまう。まぁそれでも、イヤイヤながらやった勉強のおかげで、この歳まで無事生き延びる程度の予知能力は身につけることが出来た。
じゃあ、大人のいう事をちゃんと聞いて勉学に勤しんだ人の超能力はどうかというと、必ずしも勉強の出来と、生き方の上手さは一致しないようだ。筋トレの達人であっても、実戦経験がなければその筋肉を使いこなすことができないように、勉強だけで予知能力が使いこなせるわけではない、ということだろう。
はたして、こんな理屈が本当に成り立つのかどうかわからないが、あらゆる経験や勉強はその内容にかかわらず、自分の予知能力を育む。そう考えれば、過去勉強したけど役に立っていないように思えることや、あまりしたくない経験すら、超能力のための訓練だと思うことで、自分が成長した実感にできる。
そんなことを考えながらこの原稿を書いている。ぼくの予知能力によれば、明日の水曜日には、一万人の人のところにこのコラムが届けられ、そのうちの何人かは実際に読んでくれる。ぼくの思考がテレパシーとして、何人かの人に届けられる。これもまた、超能力だ。
それが誰かの役に立つのか、おもしろがってくれるのか。残念ながらぼくにはまだ、そこまでの予知能力は無いようだ。
初出:【日刊デジタルクリエイターズ】 No.3235 2012/03/28
ユーレカの日々[09] 人の視点、神の視点
- 2012-02-29 (Wed)
- ユーレカの日々
世界ふれあい街歩きという番組がある。
NHKで放映されている紀行番組だが、この番組が好きで、見たり録画したりしている。地味な番組なのであまり知られていないかと思っていたら、学生などに聞くと案外、「あ、あれ好きです」という言葉が返ってくる。ぼくが見だしたのはここ3年ほどだが、2006年からやっていて、年末年始にまとめて再放送したり、DVD-BOXが何巻も発売されているところを見ると、なかなかの人気番組らしい。
最初は「なんか、臨場感があるなぁ」とぼーっと見ていただけだが、意識して見だすと、その「臨場感」が巧妙な演出によるものだということがわかってくる。
まず、特徴的なのが映像とナレーションだ。
「街歩き」ではレポーター(旅人)というキャラクターは設定されるが、それは声のみの出演で、画面には登場しない。そのかわり映像=カメラの視点はレポーターの視点(一人称)として設定される。
カメラが地元の人をとらえ、レポーターの声が「これはなんですか?」と問いかける。すると相手はこちらを見て「今朝とれた魚だよ。うまいよ」と答える。カメラが上を向けばナレーションで「わぁ、高い塔がある。どこから昇るのかな」といった具合に、カメラの視点とナレーションが画面に登場しない人物を演じるのだ。
歩く場所も観光名所ではなく、路地や市場など、あくまでも旅人視点。撮影はステディカムを使っての移動撮影で、道を歩くのはもちろん、店内に入ったり、階段を登ったり、狭い路地へ迷い込んだりという様子がすべて、一人称視点で描き出される。また、約1時間の番組の中で流れる時間は多くても半日程度。時間も距離もいきなり飛ぶことはなく、じっくりと「街歩き」を再現してくれる。
ナレーションの内容も観光ガイド的な内容ではなく、街歩きの最中に見かけたことについてなので、見ていると本当に自分自身がその街を一人散策しているか、友人と一緒に歩いているような気分なのだ。ナレーションは矢崎滋、桂文珍など有名人があてているが、お気に入りは牧瀬里穂。デートしているような気分になれる(笑)。
レポーターと書いたが、実際にナレーションを行なっている人が現地に行っているわけでない。すべて友人や恋人と散策しているような気分にさせるための演出として、映像にあとからナレーションをつけている。番組だけを見ていると、ゆるく地味な番組なのだが、よく考えてみると随分と凝った作りである。
さて、この番組の最大の特徴である「主人公が出てこない一人称映像」は、特別珍しいというものではない。もともと、カメラというのはカメラマンの一人称映像だ。しかし、世の中の映像全般を見ると案外、一人称で構成されるケースは少ない。もともと映像が一人称的なのに、映像作品になるとそれがほとんど見られない。考えてみればフシギな気がする。
もともと人称というのは小説の作法だ。主役がすべて語るのが一人称、語り手がその物語世界に登場しない、いわば神の視点で語られるのが三人称だ。
小説では全編通して「ぼく」「わたし」という一人称で書くことは珍しくない。
「僕は電車に乗り込み、混雑している車内で彼女の姿を探した。」といったように、主人公の視点で出来事とその時の気持ちや知識が同時に描かれる。
おかげで、読者は主人公と同化し、出来事を体験することになる。
その同化効果はかなり強烈だ。村上春樹の小説を読んでいると、普段の思考もついつい村上春樹の文体になったりする。別に言語化して考えなくてもいいのに「空が青いと僕は思った」など無駄に言語化して考えてしまう。現実世界で他人の考えが自分の頭に流れ込んでくるなんてことは有り得ない。小説の面白さはまさに、この同化、憑依感覚だろう。このようなコラムでもやはり人称は重要だ。「ですます」調で書くよりも、このコラムのように「である」調の方が、より筆者の思考に近い気がする。
これに対して映画やテレビドラマでは三人称、神の視点が基本だ。主人公の行動、脇役の行動、全体で起きていること、それらが客観的に描かれていく。
時折、登場人物が見ている一人称視点の映像(クローズアップショット)が挿入され、それにより、登場人物がなにを見ているのかが説明される。次にその人物の表情が繋げられ、その人物がそれを見てどう感じたのかということが伝わる。映画編集の基本「モンタージュ」はこのように一人称映像と三人称映像を交互につなぐわけだが、全体としては客観的な三人称映像による状況説明が主体だ。客観的な映像も、そこにいる誰が見ているのか、だれが知り得る状況なのかを常に意識して撮影されるが、それでも主役が画面に登場しないということは有り得ない。
では、映画のもうひとつの要素、音はどうだろうか。画面には登場していなかったり、登場していても映像としてはしゃべっていないのに、その人物の声でセリフをしゃべる場合がある。「モノローグ」といわれるものだ。
世界ふれあい街歩きは、全編このモノローグで構成されているわけだが、映画でモノローグが使われるのはかなり限定された状況だ。導入部や回想シーンで一人称的に語られる(「わたくし、山田奈緒子は超売れっ子美人マジシャン…」「姉さん、また事件です…」など)ことはあっても、ドラマ全体が一人称というのはほとんど無い。
ブレードランナーの劇場公開バージョンでは、主人公のつぶやき「俺はブレードランナー。元警察官…」といったモノローグではじまる。これは、映画会社から「内容がわかりにくい」という指摘から、後で付け足したものらしい。しかし、説明的な独り言は、ハードボイルド小説の雰囲気は出るものの、いささか白けてしまい、その後のディレクターズカットでははずされた。
その他だと邦画やアート系の小品にありそうな気がするが、圧倒的に少ないのは確かだろう。
小説が一人称を使って、主人公との同化効果を得ているのに、映画ではそれが使われないのはなぜだろう?
マンガやアニメはどうだろうか。マンガは基本、映画同様に客観的な視点で状況が描かれるが、映像よりも一人称度が高い。複数の人物のモノローグが入れ替わり立ち替わり使われるケースは珍しくない。これは動かない絵による表現を補うためだ。どうしたって、生身の役者の演技と同等の表現を絵で行うには限界があるから、モノローグを使ってそれを補うのだ。
複数の登場人物の心の声がわかってしまうのはドラマとしては反則。もし小説で主人公以外の登場人物が勝手にモノローグで考えを表現しだしたら、読者は大混乱になるだろう。だが、マンガだと客観的な画面があるせいか、意外と混乱せずに読める。特に少女マンガでは主人公の気持ちを表現するのにモノローグが多用される。一人考えている場面はもちろん、たとえば彼氏と出会った瞬間、心の声で「かっこいい!」という風に、いたる所でモノローグが添えられ、全体として主人公の気持ちを軸に語られる。そのおかげで、そういった少女マンガを読むという体験は、映画というよりは小説を読むのに近い、主人公との同化感がある。
マンガ原作のアニメでも、モノローグが多用される。実写映画とは随分対照的だが、これもキャラクターに芝居をさせるのに手間暇がかかることから、積極的に取り入れられてきた手法だろう。映像的な違いではなく、映画としてもどうしてもアニメがマンガ的に感じられるのは、モノローグや独り言といった説明的なセリフに頼らないと表現が成立しない点にあるように思える。
ゲームはプレイヤーが操作するという意味で、徹底して一人称だ。プレイヤーのキャラクターが画面上に登場する場合が多いが、それは操作性という問題があるからだろう。自分がなにもしなければ画面上ではなにも起きない以上、ゲームはビジュアルがどうであろうと一人称的にならざるを得ない。
言うまでもなく、一人称の面白さは疑似体験だ。小説でもゲームでも、自分自身がその仮想世界にどっぷりと入り込むことができる。しかし、映像の一人称には決定的な弱点がある。それは「主人公のキャラがたてられない」ということだ。
画面に主人公が登場しないと、当然、そのキャラクターの印象は薄くなる。ゼルダやドラクエのように、画面に登場したとしても、そのキャラクターの性格や考え方はプレイヤーが行うことになるので、どういう人物なのかがはっきりしない。
映画やマンガのようなキャラクターの魅力で売る手法が使えない。
「世界ふれあい街歩き」が一見、地味に見えるのも、レポーターというキャラクターがビジュアルとして登場しないからだ。牧瀬里穂がヨーロッパの街を探索していた方がビジュアルとしては当然映える。
これに対し、小説の場合、最初からビジュアルがないのでそのような制限がない。読者はそれぞれ、主人公になりきりながら、主人公の人柄を思い描く。小説が映像化されたとき、賛否両論になるのは、読者の数だけ主人公像があるからだろう。
ではなぜ、映画では一人称が少ないのだろうか?映像では主人公を出さざるを得ないだろうが、モノローグという手法はもっと多用されてもいいはずだ。色々考えてみて、どうやらこれはそれを体験する「環境」の問題が大きいように思えてきた。
一人称は主人公との距離がとても近い。小説やマンガといった表現は、ものすごく個人的なものだ。大人数で同時に読む、ということは有り得ない。自分が何を読んでいるのかも、他人からはわからない。他の人といっしょに一人称小説を読む、というのは、一人で読むような没入感は得られないのではないだろうか。
もし全編、一人称で語られ、構成される映画だと、劇場で見るとなんだかとても恥ずかしいような気になってしまうのではないだろうか?いくら映画に没入したところで、まわりの観客、自分が置かれた劇場という環境を忘れることはできない。同化している主人公の気持ちを他の人達といっしょに感じ取るというのは、自分の考えを見透かされているようで、落ち着かないのではないだろうか?だから映画は三人称にならざるを得ないのではないか。
映画を見た後、一緒に見た人たちと今目の前で起きた「事件」に対しておしゃべりする。これは自分たちが均等に「目撃者」という立場だからできる楽しさで、一人称が強い小説だと、そうはいかないように思える。
そう考えると、「世界ふれあい街歩き」がいかに絶妙な設定であるかに気がつく。
旅というシチュエーション。テレビというシチュエーション。一人で見ても、家族で見ても、ナビゲーターと一緒に異国の街を散策している気分になれる。ベテランナレーターによる、適度にキャラの立った、でも姿を見せない主役。モノローグも心情まで深いものではなく、友だちや恋人といっしょにおしゃべりしながら異国の街を歩く感覚。ストーリーではなく、実時間を体験するコンテンツだからこそ、成立しているのだろう。劇場で見ると、映像はもっと迫力を増すだろうが、ナレーションによる一人称はかえって邪魔になるような気がする。テレビならではの、紀行モノというジャンルだから成り立つ、ゆるいプライベート感覚がこの手法を成立させているように思う。他のジャンルではなかなかこの企画は成立しないような気がする。
しかし現代、映画、ドラマというコンテンツの公開方法は変わりつつある。
劇場という公開形態であれば、今後も観客は「目撃者」という立場であり続けるだろう。しかし、テレビやDVD以上にプライベートな視聴環境であるiPhone、iPad、モバイルゲーム機で見る映像コンテンツ、ドラマであれば、小説やマンガと同様の一人称というのもアリではないか?
近年、森見登美彦の小説「四畳半神話大系」がテレビアニメ化されたが、これはもう、小説そのまま、ひたすら主人公がのべつまくなし語るという、とてもうるさいアニメだった。おかげで、従来にない文芸感覚あふれる映像になっていた。もともとモノローグに違和感がないアニメ(動くマンガ)ということもあるだろうが、かなり面白い表現だ。
昔、「音の本棚」というFM番組があった。小説をラジオドラマ化する番組で、朗読ではなく、それなりに脚色されたドラマ版だったが、深夜に一人で聞くラジオドラマという性質上、一人称がとてもよく似合っていた。
劇場では白けてしまう説明過多のモノローグや一人称視点も、電車の中でヘッドフォンとiPhoneの画面で見るのであれば、かえって効果的ではないだろうか?マンガや小説のように、主人公に没入できるのではないだろうか?映像を読みとかなくてはならない映画を小さなiPhoneの画面で見る気にはなれないが、「四畳半神話大系」やラジオドラマ的に語りで構成される映画なら、小説同様、楽しめるのではないか。
映画というのはエジソンが発明した当初はアーケード型、のぞき眼鏡タイプのプライベート体験だった。リュミエール兄弟により劇場投影タイプに移行してから100年。ようやく、エジソンタイプのプライベート体験を活かす環境が整ったわけだ。
映画が今まで避けてきたモノローグという手法。iPhone時代の現代、もう一度見なおしてみてもいいような気がする。
初出:【日刊デジタルクリエイターズ】 No.3216 2012/02/29
ユーレカの日々[08] マンガが生き残る唯一の方法
- 2012-02-03 (Fri)
- ユーレカの日々
iBooks Authorが発表された。Apple最新の電子Bookオーサリング環境だ。残念ながらうちのMacのOSは「古いFlashなどを起動させる必要があるかもしれない」ため、未だ古いOSのまま。これではiBooks Authorをインストールできない。悔しいので、いろいろ記事を読んでいると、まだいくつか問題があるようだ。
一番残念なのは、文字組が横書きのみで、縦書きができないという点。どうやら右綴じの本も作れない。
縦書きの組み版はEPUB 3として標準化されているので、いずれiBooks Authorも対応するだろうが、そういえば同じAppleのワープロ「Pages」はもうVer4にもなるのに、未だ縦書きに対応していない。それを考えると、iBooks Authorの縦書き対応はかなり望み薄なのかもしれない。
そういえば20年ほど前も、IllustratorやPageMakerで縦書きができるようになるまで、随分待たされた。21世紀になっても、やはり縦書きはマイノリティなのだ。
現在、縦書きを日常的に使っているのは日本くらいだ。もともと日本と同じ漢字縦書き文化だった韓国も中国も、看板などを除いて現在はあらゆる文章、文字が横書きに移行している。
ユーレカの日々[07] 不自由さの中から生まれる進化
- 2011-12-14 (Wed)
- ユーレカの日々
ユーレカの日々「不自由さの中から生まれる進化」まつむらまきお
メビウスというフランスのマンガ家がいる。日本の大友克洋や寺田克也に影響を与えた作家であり、エイリアンやTRONといった80年代SF映画のコンセプトデザインを手がけ、今日のSFファンタジーのビジュアルの基礎を築いた人である。
フランスのマンガは大人向きで、大判フルカラー。キャラクターの感情表現に重きを置く日本のマンガと違い、絵と物語をゆっくりと楽しむスタイル。僕が大学で教えているのはイラストレーションを学ぶ学生だが、日本のマンガスタイル以外のものにも興味を持ってもらうために、毎年、メビウスはじめ、いくつかのフランスマンガを紹介している。
ユーレカの日々[06] 不確実な過去
- 2011-11-09 (Wed)
- ユーレカの日々
ひさしぶりに純度の高いSF映画を見た。現在公開中の「ミッション:8ミニッツ」。
そのタイトルから、ミッション・インポッシブルのようなアクション映画かと思ってしまうが、非常に知的な、筋金入りのSF映画だ。原題は「Source Code」で、こちらもいまひとつピンと来ないタイトルだが、監督は「月に囚われた男」のダンカン・ジョーンズ。デヴィッド・ボウイの息子さんである。「月〜」はSF映画としてとてもよく出来ていたので、期待して見に行った。
爆破事件があった列車の乗客の記憶に入り込み、爆破直前の8分間を追体験することで、爆破テロの犯人を探る、というストーリー。
http://disney-studio.jp/movies/mission8/
ユーレカの日々[05]「Stay hungry, Stay foolish」の謎
- 2011-10-12 (Wed)
- ユーレカの日々
ジョブズが死んだ。
たくさんの報道がなされ、アップルストアの前には供花の山ができ、たくさんのコメントやツイートが世界中を駆けまわった。
ぼく自身も、もう20年もApple製品を使い続けているし、Appleという会社は数少ない信頼できるヤツだと思っている。絵を仕事にできたのもAppleという会社のおかげだ。
今回のジョブズの報道で、多く紹介されたのが「Stay hungry, Stay foolish.」という言葉だ。この言葉はデジクリの読者であればご存知だと思うが、05年のスタンフォード大学卒業式スピーチの結びの言葉だ。
< http://video.google.com/videoplay?docid=9132783120748987670 >
6年前のスピーチで当時も話題になったが、ジョブズの思想を紹介する意味で、多くの追悼記事でこの言葉が引用された。
この演説では、「関係ないと思っている体験でも、いつか他のものと結びつき新しい結果を生み出す」「敗北は人を鍛え、成長させ、愛は人を救う」「毎日、人生の最後の日だと思って悔いなく生きる」の三点について述べられ、最後に「Stay hungry, Stay foolish.」を三度繰り返し、スピーチを結んでいる。
とても素晴らしいスピーチだが、あらためてこのスピーチを見ると、最後の「Stay hungry, Stay foolish.」はかなり唐突で、先の三つの話とどう結びついているのか、この演説からだけではわからない。
大学をやめたことや、会社を追い出されたことが「愚かなこと」なのか? それをしろと言ってるのか? ジョブズは「Stay hungry, Stay foolish.」そのように生きたいと言う。まるで謎掛けのように、この言葉が投げかけられる。
日本でもCM展開されたAppleの「Think different」キャンペーン。「クレイジーな人たちがいる。反逆者、厄介者と呼ばれる人たち。」というあのCMと、この言葉はたしかに似ている。ニュアンスはたしかに同じ気がするが、どうも違和感があるのだ。
あらためてビデオを見なおしてみると、「Stay hungry, Stay foolish.」はジョブズ自身の言葉ではなく、ジョブズが影響を受けたという雑誌「Whole Earth Catalog」最終号に載ったメッセージを引用し、そのように生きたい、ということを言っている。報道でよく見かけた「ハングリーであれ、愚かであれ」という翻訳だと、ジョブズが我々にそう言っているように思えるが、全然違うじゃないか。
そこでまずはその紹介されている雑誌「Whole Earth Catalog」について調べてみた。60年代後半から年一冊というスタイルで発行されていた、ヒッピーカルチャーの雑誌だ。ヒッピー思想に基づき、そのライフスタイルに必要な情報、放浪や精神世界、農業、建築(フラードームなど)、コミュニティの作り方、またメディアやコンピュータなどの情報をまとめた、まさにヒッピーのガイドブックのような本だったという。
こちらのサイトで本の内容も閲覧できる。
< http://www.wholeearth.com/index.php >
日本には「地球の歩き方」という、若者向けの旅行ガイドシリーズがあるが、雰囲気としては、あれをもっと骨太でオールジャンルにしたような感じだったんじゃないだろうか。もしくは、昔大阪で発行されていた「ぷがじゃ」とか。実用情報中心でありつつ、ヒッピーカルチャーとはなにか? というマニュアルにもなっていたように思える。
ヒッピーカルチャーはベトナム戦争への反戦運動が発端であり、基本は「反体制」「自然」「平和」「自由」だ。体制に反旗を翻し、大学を捨て、仕事を捨て、本を捨て、街を出て、自然と共に自由に生きるという思想だ。大人たちは顔をしかめ、苦々しく思う。そういう存在だ。
ということは、「Stay hungry, Stay foolish.」はヒッピーカルチャーのことを言ってるのは確かだ。ジョブズは若いころヒッピーカルチャーに傾倒していたのは有名な話だ。しかし、じゃあなぜ、なぜ「Be hungry...」ではなく、「Stay」なんだろう?
同じ命令形で使う動詞でも、Stayはその状態を保つ、という意味合いであり、日本語に訳すと「ハングリーで居続けろ、愚かで在り続けよ」ということになる。ジョブズがヒッピーの精神のように生きたいというのであれば、StayじゃなくてBeじゃないのか?
この言葉はこの本のサブタイトルとかではなく「最終号の裏表紙(最後のページ)」に載っていた言葉だという。調べてみると最終号が出たのは1974年。ぼくが中学一年の時で、日本ではフォークブームまっさかりだが、アメリカではヒッピーカルチャーがすっかり下火になってきた時期だという。10年間続いたベトナム戦争が終わる1年前だ。
ここまで調べて、ようやくわかった。
つまり、この時期、「もうこんなバカな生活はやめて、大人になるよ」といって多くのヒッピーが会社や学校や組織に戻っていったのだ。もしくは発行人もなんらかの事情で続けることができなくなったのだ。その最終号に記されているということは、つまり、自分たちも含め去りゆくヒッピーたちに「これで終わるけど、ヒッピーであったことを忘れるな」というメッセージ、雑誌の遺言なのだ。
ジョブズもまた、その去っていった一人だった。ヒッピーから足を洗って、ビジネスという現実の世界へ足を踏み出そうとしていた時期だ。大学を中退しアルバイトでしのいでいたジョブズがATARI社に採用された年だ。
ジョブズのやってきたことは、まさに反体制だ。ヒッピーの魂だ。IBMに戦いを挑み、マイクロソフトを馬鹿にし、日本製パソコンをクソだと言い、常に本流を否定して「そうじゃないもの」を提示してきた人だ。スーツでなく、ジーンズで新製品の発表をした。ビジネスリーダーではなく、キャンプ村のリーダーのように話した。
だが、ジョブズは成功した。数多くの挫折の果てに、この10年間華々しい成功を収めてきた。スピーチがされた05年はiPhone登場以前、iPodが空前の大ヒットとなり、Macもまた安定した評価を得た時代だ。もう反抗児ではなくなったジョブズなのだ。
そんな自分自身に、ヒッピーであることを忘れるな、と言い続けているのがこのスピーチの背景だ。「うぬぼれるな、初心忘れるべからず」というような単純な意味もあるだろうが、ヒッピーの考え方とジョブズの人生から、よりジョブズのメッセージを理解できるような気がする。
先に釈明しておくが、ここからはさらに僕の勝手な解釈であり、ジョブズは違うというかもしれない。僕個人がヒッピー発ジョブズ経由の「Stay hungry, Stay foolish.」をどう考えるか、という話だ。
ジョブズはまず、常識や、あたりまえや、しがらみや、体制といったものを否定する。スタートが現状の否定だ。ヒッピーもここからスタートだ。
現状の否定と書くと、現実に絶望しているネガティブシンキングに聞こえるが、そうではない。ヒッピーの現状否定はあくまでも反体制。「本来はこの世界はもっと素晴らしいはずだ、もっとよくなるはずだ」(自分にとってなのか、世界にとってなのかはいざしらず)ということが基本にある。
ネット上にはあの製品はつまらない、あの会社はオワタ、あの政治家はクソだ、なんて言葉が溢れているが、多くは無責任な愚痴であり、ヒッピーが衰退していったのも、多くのヒッピーがこのレベルだったからだろう。
また否定のレベルは全否定でなくてはならない。日本の工場の現場などでは「改善提案運動」という問題点を洗い出し、効率化に役立てる運動があるが、もっと根本から否定するのがヒッピーだ。
現状を否定した以上、その理由を論理的に証明しなくてはならない。なぜそれがダメなのか、なぜそれがつまらないのか。
簡単なようで、これがなかなか難しい。なぜなら、世の中の常識、当たり前、システムというのは、人を考えさせないために存在しているからだ。たとえば、自動車は日本では左を走る、と決まっている。常識であり、ルールだ。おかげで道に出たときにまわりを判断しながら右を走ればいいのか左を走ればいいのか、いちいち考えなくてすむ。
大学に入ったらそのコースを卒業する。大人になったら就職する。日本は原発でやっていく。ナチスは世界を征服する。決めたらもうあとは考えない。いちいち考えていたら大変だから。盲目的に従うのはとても楽だ。支配する側もされる側もとても楽。ディスクドライブにはイジェクトボタンが必要。コンピュータ操作にはマニュアルが必要。決めてあれば、考えなくて済む。気にする必要はない。それぞれ、それに従う努力をするだけいい。
だから、それを否定する理由を説明するには、その常識やシステムやルールがなぜ、存在しているのかという根源から考え、知る必要がある。なぜ、いつからそれが常識になった? だれがそのルールを、何のために作った? 世の中の当たり前の理由を考えるのだ。
皆がずっとそうしている、常識やルールというのは、淘汰されて自然と残っている、とりあえずはうまくいっているシステムだ。たとえばハリウッド映画がワンパターンなのは、それが見ている人に快感を与えるからだ。淘汰されてきたワンパターンのレベルは実はものすごく高い。相当手強い。自分が否定しようとしているものの理由を知ること。バックボーンを知ること。これがなければ次の過程である解決策、代案を出すことができない。
さて、次の段階は、その理由が現在も通用するのかを検証し、その上で解決策を提示することだ。今もその常識は意味があるのか? 先に述べたように、ルールや常識は便利な反面、思考停止のリスクを伴っている。多くのルールが形骸化しているのに、そのまま放置されている。他にもっといい手はないのか?見落としているものはないのか? あらゆるパターンにあたり、組み合わせを試し、検証しまくるのだ。
なんとかその解決策を見つけたとしよう。もしくはその正当性に納得したとしよう。それを喜んでそのまま実行するのはまだまだ凡人だ。本物のヒッピーであるジョブズは、そんなところで止まらない。
その自分がひねりだした解決策や納得した理由を容赦なく否定する。否定し、その理由をまた必死で考え、代案を必死でひねり出すのだ。なぜなら否定することがヒッピーの信条だから。
これを最低三回繰り返す。三回というのはまつむら基準で、ジョブズはひょっとしたら20回だったのかもしれない。
自分の考えであっても、一度で納得、鵜呑みすることでは、常識を無条件に受け入れるのと同じことになる。近視的なビジョンにすぎない。三回以上繰り返すことで、よりよい解決策、よりよい長期のビジョン、より本質的な真理に近づける。
これを実行するときにもうひとつ重要なのは、「自分の心の直感」だ。これは言い換えれば「普通の感覚」「子どものような素直な感覚」ということだ。
「これ、使いにくいなぁ。」「なんでこんなところに柵があるんだ?」というのが普通の感覚。それに「しょうがないなぁ」とか「ああ、間違えちゃった。俺ってダメポ」といいながらほとんどの人は自分を合わせてしまう。その方が考えなくていいから。みんながやってることに従うのが楽だから。普通の感覚、自分の心の直感の方に蓋をしてしまうのだ。
最初違和感を憶えても、皆すぐに忘れてしまう。慣れてしまえばとりあえず問題はない。これでは思考停止だ。常に自分の「これ、なんか気にくわない」「これ、なんか好き」という直感を忘れてはいけない。これはヒッピーの自然主義や、感覚主義とも共通する。
たとえば、同じ結果を得られる二つの方法があったとする。技術者、経営者的には、より安く安定した方法を重視するが、ジョブズはその過程の質、操作や行動、体験を重視する。なぜなら、人が機械やルールやシステムにあわせるのは間違いであり、操作・行動する人の感覚を信じているからだ。
さらにある程度成功を収めると、人は保守的になる。だが、ジョブズはそれもよしとしない。ビジネスで成功する前からよしとしなかった。iMacのデザインにしろ、OSにしろ、ハードやインターフェイスにしろ、自分が世に出した製品を常に否定し、疑い、次の案を提示し続けた。人気のあるデザインや互換性を切り捨て、非難を受けても次に進んだ。
こういったジョブズのやり方はほんと、めんどくさい。周りから見れば、バカで迷惑なことだ。決まったとおりにやってくれれば、うまくいくのに。今うまく行ってるのに。またあいつ、みんなと違うことやってる。困ったやつだ。だが、このやり方こそが、世の中を本当に良くしてゆく唯一の方法だと信じ、ひとつひとつ実践し、そしてそれが真実だと確信したのがジョブズの生き方であり、このスピーチの結びの言葉の意味なのだ。
ジョブズは天才と言われるが、本当は「直感的にひらめく」天才ではなかったのではないか。最初から人とは違う理想のビジョンなど持っていなかったのではないか。ヒッピーカルチャーに触発され、とにかく疑い、子どものような普通の感覚を信じ、徹底的に考えた人ではなかったのか。
目の前にある、だれかが作ってくれた当たり前の安全で楽な道を否定し、わざわざ藪の中へ入っていくこと。そちらにこそ、世界をよくする新しいアイデアがあると信じること。人に期待するな。疑ってかかれ。ねだるな。工夫しろ。頭を使え。自分の手と足で生きろ。
Macと出会い、人生が変わったという人は多い。僕自身、Macと出会わなければ、違う人生、違う仕事をしていたと思う。しかし、それは表面的なこと、結果にすぎない。
ジョブズが、MacやiPhoneという素敵なガジェットに込めてぼくらに渡したバトンは、ヒッピーの魂だ。ぼくらがすべきことは、サンタクロースが死んだと残念がることでも、救世主が死んだと途方に暮れることでもないはずだ。ジョブズがヒッピーから学んだことを、またぼくらなりにジョブズから学ぶことだ。
ジョブズは死んだ。ジョブズの死を悲しんだり失望している暇はない。
ジョブズがしたように、ぼくらもこの偉大なる先達から学ぼう。
「Stay hungry, Stay foolish.」
【日刊デジタルクリエイターズ】 No.3130 2011/10/12
ユーレカの日々[04]カッコイイ広告で未来へゴー!
- 2011-09-14 (Wed)
- ユーレカの日々
先日、京都へ学生のグループ展を見に行った帰り、ふと立ち寄った書店で面白い、というか、ものすごい本を見つけてしまった。「昭和ちびっこ広告手帳」(青幻舎)である。
上巻
青幻舎
¥ 1,260 (定価)
¥ 1,260 (Amazon価格)
なし (Amazonポイント)
(私のおすすめ度)
(Amazonおすすめ度)ペーパーバック
在庫あり。
(価格・在庫状況は5月18日 4:31現在)
下巻
青幻舎
¥ 1,260 (定価)
¥ 1,260 (Amazon価格)
なし (Amazonポイント)
(私のおすすめ度)
(Amazonおすすめ度)ペーパーバック
在庫あり。
(価格・在庫状況は5月18日 4:31現在)
この文庫本が発行されたのは2009年(底本は1999年の「ちびっこ広告図案帳」)。タイトル通り、昭和30年〜40年の少年少女雑誌に掲載されていた広告ばかりを集めた本である。フルカラー、各巻300ページで、上巻は1960年代、下巻は1970年代の広告が収録されている。
この本が目についたのは、最近は死語に近い「ちびっこ」という語感と表紙のビジュアル。
60年代編(東京オリンピックからアポロまで)は「シェー」のポーズをするイヤミと、シェーのポーズをする少年の写真だ。以前、テレビの探偵ナイトスクープでもやっていたが、ぼくのような60年代生まれの人の少年期のアルバムには必ず、このイヤミのシェーのポーズの写真が収められているのだ。
下巻の70年代(大阪万博からアイドル黄金期まで)の表紙は「モーレツ」の小川ローザのスカートをめくっているニャロメである。当時、スカートめくりは小学生男子の紳士の嗜みであった。元祖草食系の私はしなかった(できなかった)が。
さてページをめくると、これがもう、めまいがするような内容。アトムのシール付きマーブルチョコ、おそ松くんペナントが当たるおそ松くんチョコレート、科特隊の流星バッジが当たるウルトラマンチョコレート、ウルトラQの怪獣ソフビにサンダーバードのプラモデル。きせかえリカちゃん。フラッシャー付き自転車に短波ラジオ。
当時最先端の「子供たちが欲しかったモノ」の広告がぎっしりと詰まっている。ページの間から欲望のオーラが立ち込めるようだ。これらの昭和製品そのものは、テレビの鑑定団などでしばしば紹介されたり、本にまとめられていたりするので、さほど珍しいというものではない。
しかし、この本では商品そのものではなく、広告という形で紹介しているところがミソ。モノだけだとただのノスタルジーだが、これらのこども心を鷲掴みにせんと、扇情しまくりの当時の広告は、当時の強烈な飢餓感を鮮烈に蘇えらせるのだ。
特に凶悪なのが懸賞だ。今の時代、あまり射幸心をあおりすぎるような景品はダメ、ということになっているらしく景品は市販されているモノが中心だし、オリジナルグッズであってもヤフオクなどでいくらでも手に入るので、それほど魅力的には見えない。しかし、昭和時代の子ども向け景品は暴力的なまでに魅惑的だ。
たとえば、小学生の頃欲しくて欲しくてたまらなかった懸賞品に、「悟空のきんそう棒」というのがある。虫プロアニメ「悟空の大冒険」のグッズで、明治のお菓子で当たるという懸賞。この本を見るまですっかり忘れていたが、これがすごい。
推定長さ1m直径8cmほどのきんそう棒の中には「すごい倍率のカッコイイ望遠鏡」「金貨や指輪が入ってる宝袋」「どこでも方向がわかる精密な羅針盤」「あかるい懐中電灯」などなどの、きっとすばらしく役に立つであろう「12のひみつがギッシリ!」収納されている、当時の小学生の想像をはるかに超えたスーパーアイテムなのだ。
今の人にはあまりピンと来ないかもしれないが、当時、懐中電灯もコンパスも望遠鏡も、子供たちにはあこがれのスーパーメカ、これさえあれば、自分は万能になれるに違いない、iPhone並のスーパーアイテム。
それが一本の棒なんと12個もつまっているのだよ!! しかもそれはどんなに親にねだっても、お金では買えないオリジナル景品なのだ!! 雑誌広告やTVCMでさんざん煽られるのに、クラスのだれもその現物を見たことがない幻のガジェット。市販品ならお店に行けばウィンドウ越しに見ることができるが、これは見ることさえ許されない、本当に特別なモノなのだ。
もし今、iPhone並の、しかも市販されていないガジェットが12個入った景品が存在したら、世の中の大馬鹿共はチョコレートであろうがキャラメルであろうが、10万、100万でも投資して応募するだろう。まぁ、そんな熱さが当時の小学生にはあったのだ。
ところが、まぁ、そういう景品は当選しない。少なくとも当時の小学校で当たった、という話は聞いたことがない。そもそもこの懸賞は明治のお菓子のラベルを100円分集めて応募するのだが、当時のお菓子の相場というのは10円〜30円程度、しかも明治などのメーカー品はたまにしか買ってもらえない高級品であり、日常の駄菓子は10円を割るのが普通。100円分というのはかなりハードルが高く、応募するのも大変なのだ。
そこで、当時の子どもはどうしたかというと、自作するのだ。きんそう棒も科特隊の流星バッジもロボットもスパイアタッシュケースもとにかく自作。紙やら竹ひごやらで、想像力の限りを尽くし、まだ見ぬあこがれの景品を自作するのである。ここにこういうものが収納されているに違いない、ここはこう動くに違いない、と妄想力を自力で形にしていくしかなかったのだ。
おかげで工作やら絵やら妄想やらばかりがどんどん得意になり、後に美術系に進み、クリエイティブな仕事に就くことになったわけだが、そのルーツがこんな子供だましの広告と景品だったのかと思うと、うれしいやら情けないやらである。
景品も暴力的だが、当時の宣伝コピーも相当暴力的。「カッコイイ水中モーターでカッコイイテープレコーダーが当たる!」カッコイイの二乗で、ATOKさんにツッコまれそうだ。「君にもいるかい、兄さんが?!」(ミクロマンの前身、少年サイボーグ)って、いないよ!「赤い血潮のフラッシャー。熱き思いを振り捨てて、男十四の帰り道」(自転車)「男ならエレクトロニクスをやろう」(電子ブロック)......うーん、熱い、熱すぎる。思いが先走って意味不明、これはもう、島本和彦かプロジェクトXの世界だ。
こういう広告と比べると、今の広告は抽象的か説明的、一言で言えばまぁ草食系で、モノが売れず経済が停滞するのもわかる気がする。「カッコイイハイブリッドカーで君も未来へゴー!!」とか「12の秘密メカがギッシリ詰まったスーパーカーが当たる!」とかやったら、プリウスも今の10倍くらい売れるんじゃないだろうか。売れないか。
ちなみに、この本の画像は図書印刷株式会社が当時の雑誌からスキャン、Photoshopを駆使しまくってレタッチしているそうで、ものすごくクオリティが高い。印刷物からの復刻なのに、スキャン画像にありがちなモアレもボケも皆無。きっとオペレーションされた方々もこの本の内容に燃えまくって作業されたに違いない。デジクリ的にはこのあたりも見どころだ。
まぁとにかく、60年代前後生まれのオヤジは、だまされたと思ってこの本をAmazonでポチッとすることをオススメする。一冊で白ご飯10杯、上下巻で白ご飯20杯保証する。若い人達は、オッサン達の意味不明な情熱がどのあたりから来ているのかを知る、貴重な資料となるであろう(ならんか)。広告に携わる人は、これを読んで目からウロコを10枚くらい落とすがよい。
【日刊デジタルクリエイターズ】 No.3113掲載 2011/09/14
Home > ユーレカの日々
Powered by NP_Paint
