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ユーレカの日々 [34] 「間違えてはいけない」という呪い

僕は絵を描くのが本業だが、文章を書くことも好きだ。しかし、いくら書いても何度見なおしても、誤字脱字、誤った記述は一向に無くならない。

前回の原稿も何度も読み返したはずなのに、「天動説」と「地動説」を逆に書いてしまっていた。毎回毎回、1〜2箇所の誤字などがあって、柴田編集長から指摘されるのだが、前回は柴田さんの目もすり抜けてしまったようだ。

誤字脱字というのは不思議なものだ。何人もが入念にチェックしたのに、必ずあとから見つかる。何年かたってから、誤字が見つかることもある。夜中に活字の間から誤字が湧いて出ているのではないかとさえ思う。

昔は文字の修正は大変だった。一文字でも増減すれば、そのあとの行にも影響が出る。写植や写真製版の時代は修正には手間もコストもかかったため、それぞれの段階での校正が重要だった。それでも誤字脱字は湧いて出る。

ぼくがコンピュータに興味を持ったのは、デジタルグラフィックもそうだが、何よりもワープロが欲しかったからだ。

●アンドゥとの出会い

ワープロであれば、文章を跡形も残さずに修正ができる。文章は頭から順序よく書かなくても、後から編集して文章を形作ることができる。

絵を描く時、頭から一筆書きで描く人はあまりいない、全体のバランスを見ながらあちこちをいじって、仕上げていく。ワープロなら絵を描くように、文章を書くことができる。

もっとも、80年代に市場に現れたワープロ専用機のほとんどは、編集機能が弱いただの清書マシンで、なかなか使い物にならなかった。一方、当時のNEC PC98では「一太郎」「松」といったワープロアプリが販売されており、640×400ピクセルという当時としては広大で詳細な画面で、文章を作成することができた。

大学時代にタイピングをおぼえておいたお陰で、就職してすぐに会社のワープロで文章を書くようになった。

文章を書く環境として、夢のように快適だったが、今の常識からすれば、不便きわまりないものだった。

何が不便かといえば、当時のパソコンでは、実行したコマンドは取り消せないのが普通だったのだ。たとえばワープロで、ある文節を他の場所に移動させる時は「移動」コマンドを選んでから「範囲」を指定し、「移動先」を指定する(コピー&ペーストという概念もMac以前はほとんどなかった)。で、ミスった時はもう一度、その部分を選択して移動させるわけだ。

だからMacを初めて買った時、感動したのはシステムレベルでの「カット&ペースト」「アンドゥ(取り消し)」だった。あらゆるアプリの、あらゆるコマンドで「切り貼り」「取り消し」ができる。それはまるで、魔法のようだった。

アンドゥだけではない。重要なコマンドではダイアログが現れて、「本当に実行しますか?」と聞いてくる。これもシステムレベルで行われていた。

間違えてコマンドを選んでも、アンドゥやダイアログのキャンセルのお陰で、実行を取り消すことができる。そうなのだ、Macは人間が間違えることを前提に、作られていたのだ。その思想に心底驚かされた。

それまでは「間違えないようにする」「間違える方が悪い」のが当たり前であって、「間違えたらやり直す」しかなかった。「安心して間違えてください」なんて話はそれまで、聞いたことが無かった。

考えてみれば鉛筆も、以前紹介したフリクションペンも、墨や万年筆と違いアンドゥができる。貼り直しができる接着剤ペーパーセメントも、マンガで使うスクリーントーンもアンドゥができる。油絵の具もそうだ。プラモデルの塗装で複数の溶剤を使い分けるのは、アンドゥがしやすい(下塗りを侵さず、上塗りを拭い去るなど)からだ。

そう思って見渡してみれば、西欧文明の道具というのは、できる限りアンドゥを追求してきたように思える。日本文化が「間違えないように自分を鍛える」のとは全く対照的だ。

●プランBで行こう

当初のMacは一日に何度も何度も、システムエラーを起こし、全ての作業が無に帰すことが当たり前だった。フロッピーディスクはある日突然、読めなくなった。

現在のMacでは、タイムマシンというバックアップ機能がそれを防いでくれる。システムが止まっても、多くのアプリが直前の状況を再現してくれる。

プランBという言葉がある。ハリウッド映画などでよく見かける、作戦が失敗した時のためにあらかじめ用意しておく「次善策」のことだ。

軍やスパイなどが作戦がうまくいかない時に、プランBを使う、という描写を見かけたことがあるだろう。目的を遂行するために、あらかじめ複数のプランを持っておく、という、プロフェッショナルな感じがする演出だ。Macのタイムマシンはまさに、プランBだ。おかげでMacを使っての作業時に、データが失われることを恐れる必要はほとんどなくなった。

アンドゥができない実世界では、プランBが失敗を救ってくれる重要な方法となる。原稿が来なかった時に備えて代原を用意しておく、違うルートを見つけておく、といったことだ。

人間は間違える。どんなに優れた人間でも、間違えないなんてことは有り得ない。機械だってシステムだって間違える。不慮の事故、イレギュラーな状況。故障しないシステムは、無い。

だったら、重要なのは「間違えないようにしましょう」よりも、「間違えた時、どう対処するか」のはずだ。「間違えないようにする」ことも重要だが、それと同じくらい、間違いに備えることが重要なはずだ。システムレベルでアンドゥを用意したり、プランBを持っておくことだ。

●間違えてはいけないという呪い

ところが考えてみれば、子どもの頃から「間違えた時の対処」というのを教えられた記憶がない。小学校の頃から「間違えないように気をつけましょう」とか、「今度は間違えないようにしましょう」なんてことばかりを言われてきた。「間違えた時」は最初からやり直すか、罰が与えられる。

僕が教育を受けた昭和は、努力と根性の時代だったから「間違えないようにしましょう」しかなくても、いたしかたなかっただろう。努力と根性でアメリカに勝てると信じていた人たちがまだ元気だった時代だ。

しかし学校を卒業してからもう30年もたつが、その傾向は変わっていないどころか、より強くなっているように思える。

学生たちを見ていても、課題などでどうも極端に「失敗を嫌う」傾向にある。「それくらい両方やってみて自分が納得すればいいじゃないか」と思うような、些細な事でも聞いてくる学生がいくらでもいる。

学生だけではない。学校側も「失敗させない」ことに腐心している。キャリア・デザインと言われる、就職対策講座では、名刺の出し方、お辞儀の仕方、服装など、事細かにアドバイスしてくれるようだ。そんなことは就職先の企業がやることだろう、企業だって学生がそんなビジネスの常識を知らなくても当然と思って求人すればいいのに、と思うのだが。

社会、企業も同様だ。バイトの失敗をバイトに賠償させるような企業があるという。政治家でも経営者でも芸能人でも、一度でも仕事を失敗した者は世間から非難を浴び、一線から追いやられる。現在ではちょっとした発言で、ネット上ですぐに炎上する。まるで集団リンチのように「失敗を非難」する。

その結果、皆が失敗を忌み嫌う状況になってしまった。「正解」に合わせることだけが重要になり、正解しないくらいなら、最初からやらない方がマシ、という思考。言われたことにしたがっておくことが何よりも無難、という思考。そういった気分が社会に蔓延している。

器用にそれに合わせられる人だけが地位を得、合わせることができない人は自信を無くし落伍していく。一旦地位についた人間は、間違いを隠すことしか考えない。今の社会のしんどさは、このような「間違えてはいけない」という呪いによるものではないだろうか。

●なぜ間違いを忌み嫌うのか

もともと日本は「間違えてはいけない呪い」が強いのだろう。失敗は許されず、失敗した物は即座にすげ替えられる。それによって、穢(けがれ)は取り除かれるという、禊(みそぎ)の文化だ。

一見、それにより問題は取り除かれ、気分一新、仕切り直しができるように思えるが、実際は失敗したプランAに費やされたコストは全く回収されない。前任者の教訓が「失敗したらクビ」という結果以外、なにも継承されないからだ。日本人は反省しない。過去の教訓を「失敗したら大変なことになる」以外、一切、活かさない。

なぜ日本では、そんな風に過去の教訓が継承されないのかというと、日本の国土が自然資源に恵まれていたからのように思える。

自然資源が乏しい場所では、人々は自分たちの生活を維持し続けるために、継続した努力が必要となる。こういう世界では、人が変わっても過去の教訓を継承していかなくては世界が滅びてしまう。

日本列島は、定期的に台風や津波、火事といった災害が起きる。それまでに築いてきた都市や生活があっというまに崩壊する。しかし、自然風土に恵まれているため、災害地でもほんの数年で草が生え、木が茂る。魚はまた採れるようになる。ほんのすこし我慢していれば、また豊かな自然環境が戻ってくる。こういう世界では、過去の教訓はあまり重要視されない。

そんな風土の中で、失敗は教訓ではなく、穢となっていったのではないだろうか。そして現代でも、「間違えてはいけない」という言葉は幼年期から繰り返され、それはまるで呪いのように、私達を支配している。

●セクハラやじのこと

先日の「セクハラやじ」で党を辞めた都議会議員の件もそうだった。彼はプランBも、アンドゥも持っていなかった。だから問題になった時、隠そうとし、ごまかそうとした。

思想信条はともかく、彼がすぐに過ちに気づき、対処できていたらもうちょっと状況はましだったろう。さらにその過ちを社会に訴えることができれば、信頼を獲得することすらできたはずだし、社会も彼の失敗を利益とすることができたはずだ。

しかし彼のような言い訳と行動は、単に「失敗したバカな奴」「自分は間違えないようにしよう」という、「間違えない呪い」を増長させるだけになってしまった。実際に必要なのは、偏見がなぜいけないのか、そうしてしまう原因がどこにあるのかを明確にし、歯止めをかけることのはずなのに「失敗したことがいけない」という、呪いを強めただけになってしまった。

●呪いを解くために

人間、どれだけ慣れても、万全を期しても、コンピュータを使っても、間違える時は間違える。もういい加減「一度も失敗したことが無い人が素晴らしい」と思うのを辞めるべきだ。間違えた後、どう対処したのかに着目すべきだ。

間違えることに無条件で寛容になれ、と言っているのではない。間違いが無いよう、入念に準備をすることは必要だ。しかし、間違った時の責任とは、その間違いをどう次のアクションに反映させるのかであり、退職したりリセットすることではない。間違いに備えて、次の時にどのようなプランBが用意できるかどうかなのだ。

30年前、Macはコンピュータの世界で「間違えてはいけない呪い」を解いてくれた。僕たちは、アンドゥという考えも、プランBという考えも知っている。それが試行錯誤や思い切ったチャレンジを可能にしてくれていることを知っている。

まだ、現実世界での呪いは解かれていない。少しづつでも、この呪いを解いていけないものだろうか。

 

初出:【日刊デジタルクリエイターズ】 No.3724    2014/07/02

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