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ユーレカの日々[06] 不確実な過去

ひさしぶりに純度の高いSF映画を見た。現在公開中の「ミッション:8ミニッツ」。
そのタイトルから、ミッション・インポッシブルのようなアクション映画かと思ってしまうが、非常に知的な、筋金入りのSF映画だ。原題は「Source Code」で、こちらもいまひとつピンと来ないタイトルだが、監督は「月に囚われた男」のダンカン・ジョーンズ。デヴィッド・ボウイの息子さんである。「月〜」はSF映画としてとてもよく出来ていたので、期待して見に行った。

爆破事件があった列車の乗客の記憶に入り込み、爆破直前の8分間を追体験することで、爆破テロの犯人を探る、というストーリー。

http://disney-studio.jp/movies/mission8/

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ユーレカの日々[05]「Stay hungry, Stay foolish」の謎

ジョブズが死んだ。

たくさんの報道がなされ、アップルストアの前には供花の山ができ、たくさんのコメントやツイートが世界中を駆けまわった。

ぼく自身も、もう20年もApple製品を使い続けているし、Appleという会社は数少ない信頼できるヤツだと思っている。絵を仕事にできたのもAppleという会社のおかげだ。

今回のジョブズの報道で、多く紹介されたのが「Stay hungry, Stay foolish.」という言葉だ。この言葉はデジクリの読者であればご存知だと思うが、05年のスタンフォード大学卒業式スピーチの結びの言葉だ。
< http://video.google.com/videoplay?docid=9132783120748987670 >

6年前のスピーチで当時も話題になったが、ジョブズの思想を紹介する意味で、多くの追悼記事でこの言葉が引用された。

この演説では、「関係ないと思っている体験でも、いつか他のものと結びつき新しい結果を生み出す」「敗北は人を鍛え、成長させ、愛は人を救う」「毎日、人生の最後の日だと思って悔いなく生きる」の三点について述べられ、最後に「Stay hungry, Stay foolish.」を三度繰り返し、スピーチを結んでいる。

とても素晴らしいスピーチだが、あらためてこのスピーチを見ると、最後の「Stay hungry, Stay foolish.」はかなり唐突で、先の三つの話とどう結びついているのか、この演説からだけではわからない。

大学をやめたことや、会社を追い出されたことが「愚かなこと」なのか? それをしろと言ってるのか? ジョブズは「Stay hungry, Stay foolish.」そのように生きたいと言う。まるで謎掛けのように、この言葉が投げかけられる。

日本でもCM展開されたAppleの「Think different」キャンペーン。「クレイジーな人たちがいる。反逆者、厄介者と呼ばれる人たち。」というあのCMと、この言葉はたしかに似ている。ニュアンスはたしかに同じ気がするが、どうも違和感があるのだ。


あらためてビデオを見なおしてみると、「Stay hungry, Stay foolish.」はジョブズ自身の言葉ではなく、ジョブズが影響を受けたという雑誌「Whole Earth Catalog」最終号に載ったメッセージを引用し、そのように生きたい、ということを言っている。報道でよく見かけた「ハングリーであれ、愚かであれ」という翻訳だと、ジョブズが我々にそう言っているように思えるが、全然違うじゃないか。

そこでまずはその紹介されている雑誌「Whole Earth Catalog」について調べてみた。60年代後半から年一冊というスタイルで発行されていた、ヒッピーカルチャーの雑誌だ。ヒッピー思想に基づき、そのライフスタイルに必要な情報、放浪や精神世界、農業、建築(フラードームなど)、コミュニティの作り方、またメディアやコンピュータなどの情報をまとめた、まさにヒッピーのガイドブックのような本だったという。

こちらのサイトで本の内容も閲覧できる。
< http://www.wholeearth.com/index.php >

日本には「地球の歩き方」という、若者向けの旅行ガイドシリーズがあるが、雰囲気としては、あれをもっと骨太でオールジャンルにしたような感じだったんじゃないだろうか。もしくは、昔大阪で発行されていた「ぷがじゃ」とか。実用情報中心でありつつ、ヒッピーカルチャーとはなにか? というマニュアルにもなっていたように思える。

ヒッピーカルチャーはベトナム戦争への反戦運動が発端であり、基本は「反体制」「自然」「平和」「自由」だ。体制に反旗を翻し、大学を捨て、仕事を捨て、本を捨て、街を出て、自然と共に自由に生きるという思想だ。大人たちは顔をしかめ、苦々しく思う。そういう存在だ。

ということは、「Stay hungry, Stay foolish.」はヒッピーカルチャーのことを言ってるのは確かだ。ジョブズは若いころヒッピーカルチャーに傾倒していたのは有名な話だ。しかし、じゃあなぜ、なぜ「Be hungry...」ではなく、「Stay」なんだろう?

同じ命令形で使う動詞でも、Stayはその状態を保つ、という意味合いであり、日本語に訳すと「ハングリーで居続けろ、愚かで在り続けよ」ということになる。ジョブズがヒッピーの精神のように生きたいというのであれば、StayじゃなくてBeじゃないのか?

この言葉はこの本のサブタイトルとかではなく「最終号の裏表紙(最後のページ)」に載っていた言葉だという。調べてみると最終号が出たのは1974年。ぼくが中学一年の時で、日本ではフォークブームまっさかりだが、アメリカではヒッピーカルチャーがすっかり下火になってきた時期だという。10年間続いたベトナム戦争が終わる1年前だ。

ここまで調べて、ようやくわかった。

つまり、この時期、「もうこんなバカな生活はやめて、大人になるよ」といって多くのヒッピーが会社や学校や組織に戻っていったのだ。もしくは発行人もなんらかの事情で続けることができなくなったのだ。その最終号に記されているということは、つまり、自分たちも含め去りゆくヒッピーたちに「これで終わるけど、ヒッピーであったことを忘れるな」というメッセージ、雑誌の遺言なのだ。

ジョブズもまた、その去っていった一人だった。ヒッピーから足を洗って、ビジネスという現実の世界へ足を踏み出そうとしていた時期だ。大学を中退しアルバイトでしのいでいたジョブズがATARI社に採用された年だ。

ジョブズのやってきたことは、まさに反体制だ。ヒッピーの魂だ。IBMに戦いを挑み、マイクロソフトを馬鹿にし、日本製パソコンをクソだと言い、常に本流を否定して「そうじゃないもの」を提示してきた人だ。スーツでなく、ジーンズで新製品の発表をした。ビジネスリーダーではなく、キャンプ村のリーダーのように話した。

だが、ジョブズは成功した。数多くの挫折の果てに、この10年間華々しい成功を収めてきた。スピーチがされた05年はiPhone登場以前、iPodが空前の大ヒットとなり、Macもまた安定した評価を得た時代だ。もう反抗児ではなくなったジョブズなのだ。

そんな自分自身に、ヒッピーであることを忘れるな、と言い続けているのがこのスピーチの背景だ。「うぬぼれるな、初心忘れるべからず」というような単純な意味もあるだろうが、ヒッピーの考え方とジョブズの人生から、よりジョブズのメッセージを理解できるような気がする。

先に釈明しておくが、ここからはさらに僕の勝手な解釈であり、ジョブズは違うというかもしれない。僕個人がヒッピー発ジョブズ経由の「Stay hungry, Stay foolish.」をどう考えるか、という話だ。

ジョブズはまず、常識や、あたりまえや、しがらみや、体制といったものを否定する。スタートが現状の否定だ。ヒッピーもここからスタートだ。

現状の否定と書くと、現実に絶望しているネガティブシンキングに聞こえるが、そうではない。ヒッピーの現状否定はあくまでも反体制。「本来はこの世界はもっと素晴らしいはずだ、もっとよくなるはずだ」(自分にとってなのか、世界にとってなのかはいざしらず)ということが基本にある。

ネット上にはあの製品はつまらない、あの会社はオワタ、あの政治家はクソだ、なんて言葉が溢れているが、多くは無責任な愚痴であり、ヒッピーが衰退していったのも、多くのヒッピーがこのレベルだったからだろう。

また否定のレベルは全否定でなくてはならない。日本の工場の現場などでは「改善提案運動」という問題点を洗い出し、効率化に役立てる運動があるが、もっと根本から否定するのがヒッピーだ。

現状を否定した以上、その理由を論理的に証明しなくてはならない。なぜそれがダメなのか、なぜそれがつまらないのか。

簡単なようで、これがなかなか難しい。なぜなら、世の中の常識、当たり前、システムというのは、人を考えさせないために存在しているからだ。たとえば、自動車は日本では左を走る、と決まっている。常識であり、ルールだ。おかげで道に出たときにまわりを判断しながら右を走ればいいのか左を走ればいいのか、いちいち考えなくてすむ。

大学に入ったらそのコースを卒業する。大人になったら就職する。日本は原発でやっていく。ナチスは世界を征服する。決めたらもうあとは考えない。いちいち考えていたら大変だから。盲目的に従うのはとても楽だ。支配する側もされる側もとても楽。ディスクドライブにはイジェクトボタンが必要。コンピュータ操作にはマニュアルが必要。決めてあれば、考えなくて済む。気にする必要はない。それぞれ、それに従う努力をするだけいい。

だから、それを否定する理由を説明するには、その常識やシステムやルールがなぜ、存在しているのかという根源から考え、知る必要がある。なぜ、いつからそれが常識になった? だれがそのルールを、何のために作った? 世の中の当たり前の理由を考えるのだ。

皆がずっとそうしている、常識やルールというのは、淘汰されて自然と残っている、とりあえずはうまくいっているシステムだ。たとえばハリウッド映画がワンパターンなのは、それが見ている人に快感を与えるからだ。淘汰されてきたワンパターンのレベルは実はものすごく高い。相当手強い。自分が否定しようとしているものの理由を知ること。バックボーンを知ること。これがなければ次の過程である解決策、代案を出すことができない。

さて、次の段階は、その理由が現在も通用するのかを検証し、その上で解決策を提示することだ。今もその常識は意味があるのか? 先に述べたように、ルールや常識は便利な反面、思考停止のリスクを伴っている。多くのルールが形骸化しているのに、そのまま放置されている。他にもっといい手はないのか?見落としているものはないのか? あらゆるパターンにあたり、組み合わせを試し、検証しまくるのだ。

なんとかその解決策を見つけたとしよう。もしくはその正当性に納得したとしよう。それを喜んでそのまま実行するのはまだまだ凡人だ。本物のヒッピーであるジョブズは、そんなところで止まらない。

その自分がひねりだした解決策や納得した理由を容赦なく否定する。否定し、その理由をまた必死で考え、代案を必死でひねり出すのだ。なぜなら否定することがヒッピーの信条だから。

これを最低三回繰り返す。三回というのはまつむら基準で、ジョブズはひょっとしたら20回だったのかもしれない。

自分の考えであっても、一度で納得、鵜呑みすることでは、常識を無条件に受け入れるのと同じことになる。近視的なビジョンにすぎない。三回以上繰り返すことで、よりよい解決策、よりよい長期のビジョン、より本質的な真理に近づける。

これを実行するときにもうひとつ重要なのは、「自分の心の直感」だ。これは言い換えれば「普通の感覚」「子どものような素直な感覚」ということだ。

「これ、使いにくいなぁ。」「なんでこんなところに柵があるんだ?」というのが普通の感覚。それに「しょうがないなぁ」とか「ああ、間違えちゃった。俺ってダメポ」といいながらほとんどの人は自分を合わせてしまう。その方が考えなくていいから。みんながやってることに従うのが楽だから。普通の感覚、自分の心の直感の方に蓋をしてしまうのだ。

最初違和感を憶えても、皆すぐに忘れてしまう。慣れてしまえばとりあえず問題はない。これでは思考停止だ。常に自分の「これ、なんか気にくわない」「これ、なんか好き」という直感を忘れてはいけない。これはヒッピーの自然主義や、感覚主義とも共通する。

たとえば、同じ結果を得られる二つの方法があったとする。技術者、経営者的には、より安く安定した方法を重視するが、ジョブズはその過程の質、操作や行動、体験を重視する。なぜなら、人が機械やルールやシステムにあわせるのは間違いであり、操作・行動する人の感覚を信じているからだ。

さらにある程度成功を収めると、人は保守的になる。だが、ジョブズはそれもよしとしない。ビジネスで成功する前からよしとしなかった。iMacのデザインにしろ、OSにしろ、ハードやインターフェイスにしろ、自分が世に出した製品を常に否定し、疑い、次の案を提示し続けた。人気のあるデザインや互換性を切り捨て、非難を受けても次に進んだ。

こういったジョブズのやり方はほんと、めんどくさい。周りから見れば、バカで迷惑なことだ。決まったとおりにやってくれれば、うまくいくのに。今うまく行ってるのに。またあいつ、みんなと違うことやってる。困ったやつだ。だが、このやり方こそが、世の中を本当に良くしてゆく唯一の方法だと信じ、ひとつひとつ実践し、そしてそれが真実だと確信したのがジョブズの生き方であり、このスピーチの結びの言葉の意味なのだ。

ジョブズは天才と言われるが、本当は「直感的にひらめく」天才ではなかったのではないか。最初から人とは違う理想のビジョンなど持っていなかったのではないか。ヒッピーカルチャーに触発され、とにかく疑い、子どものような普通の感覚を信じ、徹底的に考えた人ではなかったのか。

目の前にある、だれかが作ってくれた当たり前の安全で楽な道を否定し、わざわざ藪の中へ入っていくこと。そちらにこそ、世界をよくする新しいアイデアがあると信じること。人に期待するな。疑ってかかれ。ねだるな。工夫しろ。頭を使え。自分の手と足で生きろ。

Macと出会い、人生が変わったという人は多い。僕自身、Macと出会わなければ、違う人生、違う仕事をしていたと思う。しかし、それは表面的なこと、結果にすぎない。

ジョブズが、MacやiPhoneという素敵なガジェットに込めてぼくらに渡したバトンは、ヒッピーの魂だ。ぼくらがすべきことは、サンタクロースが死んだと残念がることでも、救世主が死んだと途方に暮れることでもないはずだ。ジョブズがヒッピーから学んだことを、またぼくらなりにジョブズから学ぶことだ。

ジョブズは死んだ。ジョブズの死を悲しんだり失望している暇はない。
ジョブズがしたように、ぼくらもこの偉大なる先達から学ぼう。

「Stay hungry, Stay foolish.」

【日刊デジタルクリエイターズ】 No.3130    2011/10/12

ユーレカの日々[04]カッコイイ広告で未来へゴー!

先日、京都へ学生のグループ展を見に行った帰り、ふと立ち寄った書店で面白い、というか、ものすごい本を見つけてしまった。「昭和ちびっこ広告手帳」(青幻舎)である。

上巻

昭和ちびっこ広告手帳 〜東京オリンピックからアポロまで〜

昭和ちびっこ広告手帳 〜東京オリンピックからアポロまで〜

青幻舎
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下巻

昭和ちびっこ広告手帳2 大阪万博からアイドル黄金期まで (ビジュアル文庫)

昭和ちびっこ広告手帳2 大阪万博からアイドル黄金期まで (ビジュアル文庫)

青幻舎
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この文庫本が発行されたのは2009年(底本は1999年の「ちびっこ広告図案帳」)。タイトル通り、昭和30年〜40年の少年少女雑誌に掲載されていた広告ばかりを集めた本である。フルカラー、各巻300ページで、上巻は1960年代、下巻は1970年代の広告が収録されている。

この本が目についたのは、最近は死語に近い「ちびっこ」という語感と表紙のビジュアル。

60年代編(東京オリンピックからアポロまで)は「シェー」のポーズをするイヤミと、シェーのポーズをする少年の写真だ。以前、テレビの探偵ナイトスクープでもやっていたが、ぼくのような60年代生まれの人の少年期のアルバムには必ず、このイヤミのシェーのポーズの写真が収められているのだ。

下巻の70年代(大阪万博からアイドル黄金期まで)の表紙は「モーレツ」の小川ローザのスカートをめくっているニャロメである。当時、スカートめくりは小学生男子の紳士の嗜みであった。元祖草食系の私はしなかった(できなかった)が。


さてページをめくると、これがもう、めまいがするような内容。アトムのシール付きマーブルチョコ、おそ松くんペナントが当たるおそ松くんチョコレート、科特隊の流星バッジが当たるウルトラマンチョコレート、ウルトラQの怪獣ソフビにサンダーバードのプラモデル。きせかえリカちゃん。フラッシャー付き自転車に短波ラジオ。

当時最先端の「子供たちが欲しかったモノ」の広告がぎっしりと詰まっている。ページの間から欲望のオーラが立ち込めるようだ。これらの昭和製品そのものは、テレビの鑑定団などでしばしば紹介されたり、本にまとめられていたりするので、さほど珍しいというものではない。

しかし、この本では商品そのものではなく、広告という形で紹介しているところがミソ。モノだけだとただのノスタルジーだが、これらのこども心を鷲掴みにせんと、扇情しまくりの当時の広告は、当時の強烈な飢餓感を鮮烈に蘇えらせるのだ。

特に凶悪なのが懸賞だ。今の時代、あまり射幸心をあおりすぎるような景品はダメ、ということになっているらしく景品は市販されているモノが中心だし、オリジナルグッズであってもヤフオクなどでいくらでも手に入るので、それほど魅力的には見えない。しかし、昭和時代の子ども向け景品は暴力的なまでに魅惑的だ。

たとえば、小学生の頃欲しくて欲しくてたまらなかった懸賞品に、「悟空のきんそう棒」というのがある。虫プロアニメ「悟空の大冒険」のグッズで、明治のお菓子で当たるという懸賞。この本を見るまですっかり忘れていたが、これがすごい。

推定長さ1m直径8cmほどのきんそう棒の中には「すごい倍率のカッコイイ望遠鏡」「金貨や指輪が入ってる宝袋」「どこでも方向がわかる精密な羅針盤」「あかるい懐中電灯」などなどの、きっとすばらしく役に立つであろう「12のひみつがギッシリ!」収納されている、当時の小学生の想像をはるかに超えたスーパーアイテムなのだ。

今の人にはあまりピンと来ないかもしれないが、当時、懐中電灯もコンパスも望遠鏡も、子供たちにはあこがれのスーパーメカ、これさえあれば、自分は万能になれるに違いない、iPhone並のスーパーアイテム。

それが一本の棒なんと12個もつまっているのだよ!! しかもそれはどんなに親にねだっても、お金では買えないオリジナル景品なのだ!! 雑誌広告やTVCMでさんざん煽られるのに、クラスのだれもその現物を見たことがない幻のガジェット。市販品ならお店に行けばウィンドウ越しに見ることができるが、これは見ることさえ許されない、本当に特別なモノなのだ。

もし今、iPhone並の、しかも市販されていないガジェットが12個入った景品が存在したら、世の中の大馬鹿共はチョコレートであろうがキャラメルであろうが、10万、100万でも投資して応募するだろう。まぁ、そんな熱さが当時の小学生にはあったのだ。

ところが、まぁ、そういう景品は当選しない。少なくとも当時の小学校で当たった、という話は聞いたことがない。そもそもこの懸賞は明治のお菓子のラベルを100円分集めて応募するのだが、当時のお菓子の相場というのは10円〜30円程度、しかも明治などのメーカー品はたまにしか買ってもらえない高級品であり、日常の駄菓子は10円を割るのが普通。100円分というのはかなりハードルが高く、応募するのも大変なのだ。

そこで、当時の子どもはどうしたかというと、自作するのだ。きんそう棒も科特隊の流星バッジもロボットもスパイアタッシュケースもとにかく自作。紙やら竹ひごやらで、想像力の限りを尽くし、まだ見ぬあこがれの景品を自作するのである。ここにこういうものが収納されているに違いない、ここはこう動くに違いない、と妄想力を自力で形にしていくしかなかったのだ。

おかげで工作やら絵やら妄想やらばかりがどんどん得意になり、後に美術系に進み、クリエイティブな仕事に就くことになったわけだが、そのルーツがこんな子供だましの広告と景品だったのかと思うと、うれしいやら情けないやらである。

景品も暴力的だが、当時の宣伝コピーも相当暴力的。「カッコイイ水中モーターでカッコイイテープレコーダーが当たる!」カッコイイの二乗で、ATOKさんにツッコまれそうだ。「君にもいるかい、兄さんが?!」(ミクロマンの前身、少年サイボーグ)って、いないよ!「赤い血潮のフラッシャー。熱き思いを振り捨てて、男十四の帰り道」(自転車)「男ならエレクトロニクスをやろう」(電子ブロック)......うーん、熱い、熱すぎる。思いが先走って意味不明、これはもう、島本和彦かプロジェクトXの世界だ。

こういう広告と比べると、今の広告は抽象的か説明的、一言で言えばまぁ草食系で、モノが売れず経済が停滞するのもわかる気がする。「カッコイイハイブリッドカーで君も未来へゴー!!」とか「12の秘密メカがギッシリ詰まったスーパーカーが当たる!」とかやったら、プリウスも今の10倍くらい売れるんじゃないだろうか。売れないか。

ちなみに、この本の画像は図書印刷株式会社が当時の雑誌からスキャン、Photoshopを駆使しまくってレタッチしているそうで、ものすごくクオリティが高い。印刷物からの復刻なのに、スキャン画像にありがちなモアレもボケも皆無。きっとオペレーションされた方々もこの本の内容に燃えまくって作業されたに違いない。デジクリ的にはこのあたりも見どころだ。

まぁとにかく、60年代前後生まれのオヤジは、だまされたと思ってこの本をAmazonでポチッとすることをオススメする。一冊で白ご飯10杯、上下巻で白ご飯20杯保証する。若い人達は、オッサン達の意味不明な情熱がどのあたりから来ているのかを知る、貴重な資料となるであろう(ならんか)。広告に携わる人は、これを読んで目からウロコを10枚くらい落とすがよい。

【日刊デジタルクリエイターズ】 No.3113掲載    2011/09/14

ユーレカの日々[03]4対3の風景

テレビのアナログ放送が地上波、BSとも終了し、デジタル放送に移行した。我が家には二台のテレビがあるが、小さい寝室用は地デジ対応の液晶に買い替え、居間用はブラウン管テレビに地デジ対応のレコーダーをつないでしのぐことにした。ブラウン管といってもハイビジョン画質対応製品で、レコーダーさえつなげば地デジもBSデジタルもBlu-rayも、液晶テレビと同等に高解像度で見ることができる。というわけで、そのまま続投していただくことになった。

ブラウン管は電気代が高く付くというのが気になるが、うちはテレビをそれほど見ないので、買い換える方がお財布にも環境にもやさしくないだろう、という判断だ。

アナログテレビは50年以上、同じフォーマットが使われてきた。途中、カラー化したり、ステレオ化したりと拡張されてきたものの、基本はずーっと同じフォーマットで古いテレビでも見ることができた。

今回はじめて、下位互換のないフォーマット変更ということになる。デジタル化することで、画質がよくなったり、録画ディスクのコピーができなくなったり、Macで見られなくなったり、時報が信用できなくなったりと、ええやら悪いやら(悪い方が多い気がするが)であるが、一番大きな変化は画面のアスペクトが4対3から16対9になったことだ。

テレビがワイド化したのはいつからだろう? VHS、レーザーディスクまではすべて4:3、その後DVDが規格化されてから徐々に受像機のワイド化が普及してきた。今うちで使っているテレビを買ったのは2001年。この時点で製品としてのテレビはすっかり16:9のワイド画面のみになっていた。

ワイドテレビはDVDを見るときはいいのだが、放送は4:3だから左右に黒い帯が入る。無理矢理ワイドに変形拡大する機能がついているが、不自然すぎて気持ち悪いので、ずっと左右が黒帯状態で使ってきた。

それが地デジになって、ようやくすべてのコンテンツが16:9に統一され、すっきりした。パソコンもこの4〜5年でワイド画面が主流になった。4:3は完全に前時代のものになったわけだ。

見慣れた4:3という比率がいつ決まったのか調べてみたら、エジソンが映画に採用したフォーマットまで遡るそうだ。その後、映画のスタンダードサイズとして規格化されたらしい。テレビはそれに習ったわけだが、映画はその後、テレビとの差別化のためにビスタサイズ(ほぼ16:9)へ移行する。

デジタルテレビ放送の16:9はビスタサイズにあわせたわけだが、現在のハリウッド映画の主流は、さらにワイドなシネマスコープサイズ(2.35:1)。そんなわけで洋画のDVDやBlu-rayにはまたまた上下に黒帯が入ってしまう。20年後くらいには、テレビも2.35:1になってまたまた買換えになるのかもしれない。

アスペクトの変化で変わるのは、コンテンツ以上に「ディスプレイのある風景」だ。駅の案内などでまだ4:3を見かけることがあるが、これも今後16:9へとリプレイスされていくだろう。

これだけ日常にディスプレイがあふれているのだから、その形状が変わることは、風景そのものが変わるということだ。古い映画やドラマでコード付きの電話機を見ると古さを感じるのと同様、4:3のディスプレイのある風景がノスタルジーになりつつある。そんなことを考えていて、古い二本のSF映画のことを思い出した。

ひとつめは「2001年宇宙の旅」。もう40年も前の映画だが、この映画の中に登場するディスプレイのアスペクトはすべて、1対1の正方形だ。

2001年宇宙の旅 [Blu-ray]

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映画が公開された1968年はようやくカラーテレビが普及しはじめた時代だから、当然これらの平面ディスプレイはすべて作り物で、正方形のスクリーンに背後から映写機で投影することで表現している。コンピュータディスプレイ、テレビ電話、スポーツ中継、タブレットPCで読む新聞など、すべてが正方形の平面ディスプレイで統一されている(全て正方形と思っていたら、冷凍睡眠の生命維持装置は横長という指摘を読者の方からいただいた。よく覚えているなぁ。また改めてよく見てみたら、食事時に出てくるタブレット型のテレビ新聞は縦長でした)。

この映画が描いている未来の風景が今も古く感じられないのは、こういうディテールの徹底した作り込みにあるのだろう。ディスプレイに囲まれた風景、という描写も時代を考えればすごいが、もし、この映画の中のディスプレイが3:4だったら、とても古くさく感じられるだろう。

もうひとつ、アスペクトにこだわった映画がある。キャメロン監督の「エイリアン2」だ。

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こちらに登場するディスプレイはすべて16:9。海兵隊の装備、医療機器、壁面プロジェクタすべてが16:9だ。公開された1986年はMacはまだモノクロの時代。パソコンもテレビもすべてアスペクトは4:3だ。

映画のセットでは、ディスプレイの上にベゼル(フレーム)を画面の上からかぶせて、16:9のディスプレイに見せている。エイリアン2は前作から数10年たっているという設定であるため、「未来のそのまた未来」を表現するための工夫なのだが、はじめて見た時、その「今の延長上にある未来感」の演出に感心したし、おかげで今この映画を見ても、やはり古さは感じられない。

そういえば、ここ数年で急速に増えたのが縦型のディスプレイだ。スマートフォン時代になって、携帯のディスプレイは急激に表現力と重要性が増した。駅の広告でも、柱にあわせた縦型ディスプレイというのが多くなってきた。いよいよ「紙」とのリプレイスが進み始めた印象だ。

しかし、まだタテ構図の映像というのはあまり見かけない。人間の目は左右に配置されているので、当然、上下よりも左右の方が視野角が広い。そういう意味では縦型よりも横型の方がずっと自然だが、本や手帳、ポスターなど、紙は縦位置で使う場合の方が多い。

昔、ビデオゲームがアーケード中心だった時代は、ゼビウスのように縦型のものがけっこう多かった。印刷物と映像の境目がなくなって、縦型ディスプレイにあわせた映像表現が増えてくると面白いと思う。

そんなわけで、4:3の画面はもう前時代の風景になった。デジタルテレビへの移行の恩恵は正直あまり感じられないが、時代の風景は確実に変わっていく。

【日刊デジタルクリエイターズ】 No.3093掲載    2011/07/27

ユーレカの日々[02]サンダーバードのデザイン

えらいものが始まってしまった。そう、デアゴスティーニの隔週刊「ジェリー・アンダーソンSF特撮DVDコレクション」全54巻、創刊号は特別価格790円、である。

イギリスのプロデューサー、ジェリー・アンダーソンの制作した、「サンダーバード」「キャプテン・スカーレット」「謎の円盤UFO」「スティングレー」「ジョー90」の5つのシリーズが隔週でリリースされてしまうのだ。

1961年生まれのわたしにとって、サンダーバードはまさにSF、トクサツ、メカアクションの原体験だ。小学生時代はサンダーバードプラモデルが爆発的なブームで、いくつも作った覚えがある。アンダーソンの作品はいくつもあるが、やはり人気はサンダーバードで今までも何度となくリバイバルブームがあった。

数年前から「キャラクターAge」という、そのあたり専門の、しかもわたしら高年齢対象(活字がでかい〈笑〉)のプラモデル雑誌がすでに5号も刊行されていたりして、つくづくこの世代は業が深いと思い知らされる。

キャラクター・エイジ VOL.06 (学研ムック)

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学習研究社
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サンダーバードのストーリーとドラマの演出は、人形劇という制限(人同士の接触アクション、殴り合いや抱擁ができない)から、今見るとかなりテンポがゆっくりしていてかったるいが、「トクサツ」の方は惚れ惚れするような空気感、重量感と、ワクワクする演出が詰まっていて、古さを感じさせない。それを実現しているのが、数々のギミックアイデアとその見せ方、そしてデザインだろう。

とにかく人形は細かい演技はできないから、メカの方を動かす。その結果様々な自動メカが未来感を醸しだす、というのがジェリー・アンダーソンの魅力。あらゆる場面で自動装置のギミックが満載で、それに子どものころのぼくらは目を輝かして未来を夢見ていた。

今でもiPhoneやデジタルガジェット、変形モノ、多関節モノにハート鷲掴みにされちゃうのは、間違いなくサンダーバードの原体験のせいだと思う。

サンダーバードでみんな大好きだったのが、「発進シークエンス」。レスキューメカが秘密基地から発進する手順の描写だ。司令室のラウンジから、ソファーや写真パネルが移動したりどんでん返しになって、パイロットが搬送され、それぞれのビークルに乗り込む。ビークルもまた、格納庫から発射地点まで搬送され、秘密のハッチが開き、一瞬の静けさのあと、轟音とともに飛び立つ。

プロデューサーのジェリー・アンダーソンはじめ、スタッフにもイギリス空軍体験者が多かったらしく、その経験から演出したと言われているが、その影響は特に日本において多大で、その後のウルトラセブン、近年ではエヴァンゲリオンなども、手順、手順のオンパレードだ。

これに対し、アメリカ映画はそのあたりは全般的に淡白。スターウォーズ4のデススター攻略発進シーンも、スタッフがバタバタ走り回っている程度で、サンダーバード的な大仕掛は見せてくれない。アメリカ映画でそのあたりの演出が見事だったのはエイリアン2くらいだろうか。

もう一つの魅力は、そのギミック満載のメカニックや建物のデザインだ。全体のシンプルさと、意味ありげなディテールの組み合わせは今見ても説得力満点。特に背景の建物やちょっとしたメカニックのデザインは、今の目で見ればアナログ時代であるがゆえに不必要に大きかったりするものの、存在感とリアリティのある、いいデザインが多い。

それに対して、主役のメカニックたちは子ども番組ということで、どうしてもオモチャっぽいハデさが目に付く。このオモチャっぽさとリアリティのバランスが、長い間愛され続ける理由のひとつなのだろう。

あまりにリアルな「正解」にしてしまうと、どうもこういったSFモノはつまらなくなってしまう。最初のガンダムやSTARWARSメカもそうなのだが、見た人が「いや、もっと正解があるはず」とツッコミを入れる余地を残しておくことが、実はとても重要なのだと思う。

ただ、サンダーバードのレスキューメカ、1号から5号のデザインはそういったユルさやオモチャっぽさだけでは説明できない、なんとも奇妙なデザインだと、昔から疑問だった。

その代表格が4号。4号は水中作業メカ、潜水艦なのだが、そのすがたはブルドーザーに垂直尾翼をつけたようなデザイン。全体に箱型で抵抗も多そう&水圧に弱そうで、だれがどう見ても、水中で活動するメカには見えない。

1号のデザインも妙だ。たしかにジェット戦闘機にはロケット型のボディに短い翼をつけたようなものがあるにはあるが、空気抵抗ありまくりな無骨なエンジンも、可変翼もどうも妙だ。

いろんな書籍雑誌を見てもそういう「デザインの理由、解説」について触れているものを見たことがなく、子どもの頃からほんの数年前まで、ずーっとそれが謎だったのだが(そうなんです、そういうことがずーっと気になってる性分なんです)、5年ほど前にふと解ってしまった。

きっかけは、大学の複数あるパソコンが見分けがつかないので、大きく数字をペイントしたらいいんじゃないか、それってサンダーバードっぽいなぁと考えていた時のこと。

まるでダ・ビンチ・コードのラングドン教授のように、頭の中に隠されたイコンの映像がひらめいたのだ(笑)。答えはそれぞれのボディに大書きされていた。オープニングで堂々と明かされていた。サンダーバードの5つの乗り物のデザインは、「アラビア数字」がモチーフになっているのだ。

まず単純なところで、2号と4号。数字の2を反時計回りに、4を時計回りに90度回転させると、それぞれ、2号、4号の横から見たシルエットだ。5号の5は上からみたところで、ドーナツから箱が飛び出しているシルエット。1号は翼をたためば1だ(そのための可変翼なのだ!)。

3号は、ロケットエンジンと本体を結ぶビーム部分を倒してみたシルエットになる。これは少々こじつけのように思えるが、3号のデザインをよく見てみると、ボディのTHUNDERBIRDという表記に対して3という数字の向きが、この機体だけ90度回転させて描かれており、ボディのシルエットに対応させているのがわかる。気づいてしまえば疑う余地もない。オープニング映像を見れば納得。
<http://www.youtube.com/watch?v=jAA3-80dwnk>

それぞれのデザインのディテールや、アレンジが絶妙なのでずーっと気がつかなかったのだが、明らかにそれぞれの主役メカとナンバーの関連を印象づけるためのデザイン。不要に思えるデザインも、数字のシルエットを形作るために必要だったのだ。

結局、リアリティも理屈も、実は味付け、枝葉にすぎないんじゃないかと思う。奇をてらってもダメで、見る人の潜在意識にあるもの、見たことあるもの、そういったものをうまく利用してやらないとデザインというのは印象に残らないのだ。

STARWARSでも奇妙なデザインのメカが多いが、そのほとんどは動物をモチーフにしたデザインであり、それが不気味さや精悍さを表現している(たとえば、ボバ・フェットの乗るスレイブ1は象の頭)。

要は抽象的になってはダメで、人間というのはつくづく、身体感覚が重要なんだなぁと思うのだ。昨今、派手なSF映画は山のようにあるけれど、あまり印象に残る「かっこええ〜〜」メカが少なくなっている気がするのは、このあたりに問題があるように思える。まだまだ方法論はあるはず。サンダーバードのように、50年近く通用するデザインを見てみたい。

【日刊デジタルクリエイターズ】 No.3074掲載 2011/06/29

ユーレカの日々[01]ZINE・リトルプレスがゆるく熱い

本を作るのは楽しい。本を売るのも楽しい。

前回の後記でちらっと紹介したが、先日、大阪のギャラリー「あしたの箱」で開催された「ZINEとリトルプレス展」に行ってきた(というか出品した)。イラストレーター、コミックエッセイ作家であり、大学の同僚でもあるMONさん< http://monmonpress.blog90.fc2.com/ > が企画した自費出版の展示会だ。

ZINE、リトルプレスというのは、どちらも「自費出版」なのだが、ニュアンスとしてはZINEは自分編集の雑誌(フリーペーパー)、リトルプレスは自費出版の本という印象。ZINE・リトルプレスの専門店、Dandelion < http://www.books-dantalion.com/ >の店長さん曰く「印刷製本を自分でやるのがZINE、印刷はもちろんデザインなどもプロにまかせる場合があるのがリトルプレス」という棲み分けだそう。

自費出版というとコミケなどのマンガ同人誌を思い浮かべるが、ZINE、リトルプレスは、絵、写真、文章、雑誌的なものなどジャンルは様々で、アートっぽ いもの、デザインっぽいもの、雑貨っぽいものなどいろいろ。全体として軽い感じ、手作り感があるのが特徴だ。ぼく自身も昔「MacFan」などで連載して いた四コマ漫画をまとめたものと、写真集を作って参加した。
< http://www.makion.net/makionlog/item_406.html >


様々なZINEやリトルプレスを見ていると、30年くらい前に自分が作っていたものと、とても似ている。高校の頃、マンガを描き始めた。多少描けるように なってくると、人に見せたくなる。そこで最初はノートに鉛筆で描いたものを、友だち間で肉筆回覧する。ところが回覧だと読みたい時に読めない。今ならコ ピーを簡単にとれるが、35年前はそうではなかった。

当時は青焼きコピー、ガリ版に代わり、ゼロックス(トナー式コピー)が徐々に普及しだしていたが、文具店などでお店の人に頼んでコピーしてもらうのが普通 で、1枚30〜50円くらいだっただろうか。ゼロックスはまだ画質も悪く、手軽にコピーを取る、という時代ではなかったのだ。

ましてや自分が描いたモノを本にしようと思ったら、商業雑誌に載せてもらうしかないのだ。読者コーナーに投稿するか、プロになるしかない。それほど、なにかを印刷物として発表、配布するっていうのは特別なことだった。

ところが高校後半になって、モノクロ1枚10円のセルフコピー機が一気に普及しだした。性能も飛躍的にあがり、ハイコントラストで拡大縮小も可能。これが 最初のメディア革命だった。低価格化もさることながら、だれの手も借りずに印刷物が作れるのだ。お店の人に原稿を見られなくて済むのだ(←これかなり大 事)。

このころ、作り始めたのが、B4コピー(当時日本はB版天下で、A3コピーができるコピー機はほとんどなかった)を8つに折って、真ん中を切る、よく遠足 のシオリなんかでやるタイプの冊子づくり。ハガキよりも小さい8ページの冊子が一冊10円でできる。自分で必要な分作って、配っちゃえるのだ。

版型が小さいので、コマ漫画は難しい。そこで絵本や、挿絵付き小説の形態で何冊か作って、あちこちで配っていた。もちろんモノクロ1色。

ZINE、リトルプレスを見ていると、そういう時代を思い出す。どれも手作り感あふれた、ごく個人的な気持ちで作られた本たちだ。しかし、見た目は35年前のものと似ていても、その背景にある動機はずいぶんと違うように思う。

昔、プロが作ったものと、アマチュアが出来ることがはっきりと違った時代には、ぼくらは必死でプロっぽいことをしようとしてきた。技術的、金銭的な制約の 中で、プロっぽく見せるためにデザインを工夫し、インレタやレタリング本をキリバリし、コピー機の拡大縮小機能を駆使して版下を作ってきた。

今はフォントもDTP環境も印刷も安価に手に入る。たとえばMacとPagesがあれば、プロっぽい洒落た印刷物を簡単に作ることができる。CSがあればオフセット印刷もWebから簡単に入稿することができる。

しかし、ZINEではそういったプロっぽさはなく、手書き、手製本といった、手作り感あふれるモノが中心。わら半紙やクラフト紙に多色孔版印刷、版画、イ ンクジェットプリントなどで刷られ、製本も単純に折り込んだものから、ホチキスや紐止め、パンチ穴に鳩目など、クラフトっぽいものが多い。

あくまでも手作りで、作る過程そのものを楽しんでいるモノが多いのが印象的。もちろん、DTPで作られているものもあるが、切った貼ったのアナログ作業での編集も多い。その結果、クオリティはアートっぽいものから、ものすごくゆるいものまで雑多。

もちろん、DTPに対する知識の有無、ということもあるだろうけど、あえて手作り感覚を選んでいる、楽しんでいる、という場合も多い。

たとえば、大阪のレトロ印刷JAM < http://jam-p.com/ > という印刷所では、リソグラフ(学校などで使う、孔版印刷機。プリントゴッコの親分)による、多色印刷を行っている。

データ入稿もできるのだけど、多色印刷の時はスポットカラー印刷の要領でそれぞれの版のファイルを別々に作って、色指定して入稿しなくてはならない。しかもリソグラフはそんな精密な機械ではないので、多色刷りはズレが大きい。

インクも完全には定着せず、手に付く。はっきり言って、4色オフセットの方が10倍は楽。だが、わら半紙やクラフト紙に刷られたその風合いは、オフセットの精密さとは真逆の心地良いゆるさ、かわいさがある。これはハマル。

また、リソグラフはコピー機みたいな機械なのでアナログ入稿も可能。手書きで版下を作って持ち込めば、デジタルの機材も知識もいらず、かわいい多色刷印刷物をすぐに刷ってくれるので、デジタル苦手な人でも気軽に印刷物が作れる。ミシン縫いの製本はとてもキュートだ。

たくさんでないもの。均質でないもの。ちゃんとしていないもの。便利でなく、めんどうなもの。渡すのにも手にするのにも時間がかかるもの。それしかできなかった35年前とは違い、あえて、それを選ぶ人たちが確実に居てるのだ。

電子出版じゃダメなのだ。Webだけじゃダメなのだ。これらの手作りの本を見ていると、なぜ今、出版不況なのか、Adobeの新バージョンが魅力的に見えないのかが、わかるような気がする。

今週の日曜日、6月5日(日)に東京代々木公園と大阪城公園で「ZINEピクニック」というイベントが開かれるそうだ。
< http://zinepicnic.tumblr.com/ >

過去のレポートを見ると、なんとものんびりした、まさにピクニック。コミケなどの、同人誌即売会とは全然違う(笑)健全な雰囲気。ZINEが気になる人はぜひ。

 

日刊デジタルクリエイターズ】 No.3054掲載    2011/06/01

 

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