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キングスマン

ぼくはゴア描写(人体切断など)が苦手だ。小学生の頃、ボーイスカウトで薪を割っていて、指を切りおとしそうになって以来、そういった描写は本当にダメ。エイリアン2で最も恐ろしいのは、冒頭のナイフの場面で、あれに比べればエイリアンの恐ろしさなど、取るに足らない。

この映画を見出して、冒頭のゴア描写でちょっと後悔したのだが、それでも面白さが先にたって、一気に見てしまった。シンプルでわかりやすいプロットとキャラクターたちが織りなす牽引力。感心するのが、この映画の中で用意されてた3つのアクションシーンが、見事に作劇場の序破急として用いられていること。最初のパブでのアクションはキングスマンとは何かを端的に描き、2つめの教会でのアクションは思ってもいなかった状況でありながら、作品の本質を描く。そして、三つ目の敵基地でのアクション(思わずひでぇと口走りながらニヤニヤしてしまう)は大きな衝撃と作家ならではの演出で、類い希なる爽快感をもたらす。

なにより、キャラクターの描き方が素晴らしい。状況がツライ主役のゲイリー。あらゆる状況を完璧に想定したクールガイでありながら、熱い人間味を兼ね備えたハリー。彼らのエピソードはもちろんだが、ゲイリーとロキシーが犬を撃てと言われた時の対比がすばらしい。その時、どう行動するかがキャラクター描写の本質なのだが、まさに教科書のような設定だ。

脚本、人物配置、シチュエーションの構造がとても上手く、映像センスも爽快感がある。数限りないオマージュも、テーマがはっきりしてるから嫌味にならない。

この感じはなんだろうと思ったら、ミュージカル映画に近い気がする。絶対にありえない描写が織りなす、作り物ならではの楽しさに満ちている。上品かつ悪趣味、テクニカルかつパッション、リアルと嘘っぽさ。相反する要素が醸し出す、フィクションならではの体験がここにある。

スターウォーズ フォースの覚醒

アメリカではすでに、史上最高の興行収入を記録した、スターウォーズ最新作。しかし、映画としては全く評価できるものではない。後半は寝そうになるほどタイクツだった。

「ルークスカイウォーカーが失踪した」という導入は上手い、ワクワクすると思ったし、エンディングはそのテーマをフォローしている。しかし、2時間を越える内容はそれとは全く無関係のエピソードしか語られない。プロットとテーマが一致していないのだ。ルークを探す話のはずが、地図を探す話になり、地図を探す話のはずが、ドロイドを探す話になってしまう。そして、山場のシチュエーション(攻略)が、このマクガフィンとはとは全く無関係。JJはマクガフィンということを理解していないとしか思えない。マクガフィンとは、ヒッチコックが定義した、プロットを牽引するアイテムで、このアイテムを巡ってドラマが展開するが、それそのものはドラマの本質ではないとされる。わかりやすい例としては、ラピュタの飛行石がそれだ。しかし、優れたドラマではマクガフィンはテーマを象徴するものとして設定される。指輪物語の指輪も、ラピュタの飛行石も。拡大解釈すればヒッチコックの鳥だって、ナイトメアのクリスマスだって、エピソードの中心にあるものは、作品のテーマなのだ。ルークを探す地図がマクガフィンとして誤っているのは、タイトルを見れば明らか。エピソード7は「ルーク、ジェダイ辞めたってよ」という映画になっていない。それだけでもこのプロットがいかにダメかがわかる。

それ以上にダメなのが、キャラクター。全てのキャラクターたちに行動原理、信念が無い。ここまでキャラが薄っぺらい映画も珍しいだろう。なぜそういう行動をしているのかが描かれないため、プロットのためのキャラクター、物語上の役割を担うことだけの存在に成り下がっている

スターウォーズの魅力のひとつは、広大な世界、多様な世界だろう。ところがこの映画はどうだ?近所の公園のような森での対決。安っぽいテーマパークのような酒場(あの客たちはどこで何をしている人たちなのか?)。まるでファンメイドのような安っぽい作りだ。JJはCGではなく、実物を作る事にこだわったというが、実物がCGに負けるのであれば、実物を作る意味など無い。

そして、説明能力の欠如。重要なことはエピソードで描くべきなのに、この映画はことごとく会話の中で言葉で語ってしまう。過去作に精通している身から見れば、ファーストオーダーが敵国なのか、テロリストなのか、シスとの関係すら曖昧で、混乱しか憶えない。

結局、JJの作るものは映画ではなく、出来の悪いテレビの連ドラなのだ。テーマや世界を描くことには興味がなく、話がややこしくなると新しい状況を作って興味を持続させているだけ。この方法はAVややおいでは成立するが、それはシチュエーションやキャラクターの良さがあってはじめて、成立すること。本作では、そこにすら至っていない。スタートはいいのだが、途中でタイクツになるのはスタトレしかり、スーパー8しかり、クローバーフィールドしかり。

JJという人はよほど、人間として魅力がある人なのだろう。バランス感覚にすぐれ、トレンドに敏感。だから仕事として、信頼され、若手ホープとして地位を築いている。ところがそういう人が優れた作品が作れるのかといえば、そうではないのだ。

経済活動としては大成功だが、文化という面では評価に値しない。

マッドマックス 怒りのデス・ロード

気がついたらBLOGを1年以上更新してなかった… twitterには向かない、多少まとまったBLOG向きに書きたいことということで、映画などのレビューをはじめます。

マッドマックスの旧作は見たことが無くて、知識として知っている程度だったが、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの前に上映された予告編を見て、そのクレイジーさに興味を持ったものの、基本的に暴力描写はしんどいので、スルーするつもりだったのだが、あまりの評判に見に行くことに。

ひとことで言えば、類まれなほど、美しい映画。キャラクター、プロット、シナリオ、映像、アクション。あらゆるエレメントが純粋でシンプルで、とてつもなく力強い。それが見事な構成で織りなされる、美しい世界。

フェリオサの左手が、ウォーボーイの腫瘍が、イモータンンの皮膚が、その背後、個性、歴史を物語る。これらの描写はけして、言葉で明言されることはない。シナリオとして、語ることと、垣間見せることの使い分けがこれほど絶妙な映画は、そうは無いだろう。

そして、一見ハッピーエンドに見える結末が語る絶望感。なぜマックスはコロニーを去るのか。コロニーの未来は多大なる障害が待ち受けている。フェリオサにはそれがまだ見えていない。だからマックスは去るのだ。希望はなくても、やるんだよ。やるしかないからやるんだよ。この結末があってこそ、マッドマックスがアポカリプスドラマのマスターピースたる由縁だろう。

そしてカルト映画たる由縁は、日常のあらゆる場面で、比喩として引用できること。仕事が忙しいとき、行き詰まったとき、ストレスを感じるとき。そういった時に思い起こされる物語は、人に勇気を与えてくれるのだ。

ユーレカの日々 [36]「人形遣い」

大阪市が文楽に対する補助金を打ち切ることに決めたそうだ。橋下市長になってから補助金が減額されてきたが、今後は年間の補助金ではなく、公演など事業毎の申請、審査になるという。

大阪以外の人にとって、文楽というのがどう認知されているのかわからないが、大阪人にとってはそれなりに馴染みのある、地元の伝統芸能だ。

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ユーレカの日々 [36] いつかアマゾンでいっぱいの空

普段、大学への通勤にディパックを使っている。昔はショルダーバッグ派だったが、腰を痛めてからはディパック専門になった。

ハイキング用のものを長い間使っていたが、これがだいぶ傷んでしまい、次に買ったのがIKEAで見つけたオレンジ色のもの。ぼくはオレンジ色のモノに極度に弱い。幼稚園の年少の時、ぼくは「だいだい(色)組」だった。それ以来、オレンジは自分のパーソナルカラーなのだ。めちゃくちゃ安かったので買っては見たが、重たいのと、ポケットがほとんどなくて、ぼくとしては使い勝手はイマイチ。

そこで今年のはじめに、たまたまネットで見かけた合皮製のバッグを衝動買い。ところがこれが大ハズレで、使いにくいわ、すぐにほつれたりしてくるわで、またまた買い換える必要が出てきた。

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ユーレカの日々 [35] ドラえもんのスイッチ

先日、梅田に藤子・F・不二雄展を見に行った時のことだ。ドラえもんなどのマンガ原稿を懐かしくながめた帰り道、ソフトバンクショップの前を通りかかったら、例のロボット「ペッパー」が接客をしていた。テレビで見るのと同じように、親子連れを相手に愛想を振りまいている。ドラえもんを見た直後だったこともあり、ロボットと人間が店頭で会話している様子に、なんだかタイムマシンで未来にやってきたような、不思議な気分にさせられた。

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ユーレカの日々 [34] 「間違えてはいけない」という呪い

僕は絵を描くのが本業だが、文章を書くことも好きだ。しかし、いくら書いても何度見なおしても、誤字脱字、誤った記述は一向に無くならない。

前回の原稿も何度も読み返したはずなのに、「天動説」と「地動説」を逆に書いてしまっていた。毎回毎回、1〜2箇所の誤字などがあって、柴田編集長から指摘されるのだが、前回は柴田さんの目もすり抜けてしまったようだ。

誤字脱字というのは不思議なものだ。何人もが入念にチェックしたのに、必ずあとから見つかる。何年かたってから、誤字が見つかることもある。夜中に活字の間から誤字が湧いて出ているのではないかとさえ思う。

昔は文字の修正は大変だった。一文字でも増減すれば、そのあとの行にも影響が出る。写植や写真製版の時代は修正には手間もコストもかかったため、それぞれの段階での校正が重要だった。それでも誤字脱字は湧いて出る。

ぼくがコンピュータに興味を持ったのは、デジタルグラフィックもそうだが、何よりもワープロが欲しかったからだ。

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