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ユーレカの日々[30] だから嘘はやめられない

全日展という書の公募展で、主催者がでっちあげた架空人物に知事賞を与えていたという事件があった。丁度同じ時期に、耳が不自由な作曲家の、ゴーストライター問題もとりざたされていた。どちらも「まるでアンドリュー・ニコルの映画のような話だな」と思った。

●ガタカとシモーヌ

アンドリュー・ニコルは、ガタカ(監督)やトゥルーマン・ショー(原案脚本)など、「嘘をつく」ことをテーマに映画をとっている人だ。

ガタカは、主人公が他人になりすまして生き延びる話だ。遺伝子判定により、身体的に劣った遺伝子を持つものは徹底的に差別される世界。イーサン・ホーク演じる、劣った遺伝子を持つ主人公が、他人から血液などを買って別人になりすまし、世間を欺いてエリートになっていく。設定こそ真逆だが、作曲家の話そっくりではないか。わたしの脳内では、佐村河内守氏がイーサン・ホークに、新垣隆氏がジュード・ロウに脳内変換されている。

書の受賞者が架空人物であった、という事件は同じ監督の映画「シモーヌ」そっくりだ。アル・パチーノ演じる映画監督が主演女優に逃げられ途方に暮れていたとき、たまたま手に入れた人間そっくりの「バーチャル女優」で映画を撮り、大成功を収める。観客はみな、実在の新人女優だと思って疑わない。そして監督はその嘘をつきとおすために嘘を重ねていく、というストーリー。私の脳内では、アル・パチーノが書を偽造している滑稽な姿が目に浮かぶ。

公開された2002年ではまだまだ荒唐無稽なSFだったが、ヴァーチャル女優でコンサートを開き、大勢の観客をだます場面など、今見ると初音ミクライブそのものであり、十分「ありそう」な話になっている。ソチオリンピックでメダルを獲った羽生選手が、オリンピック委員会が捏造した架空人物で、あれはすべてCGによる偽装映像だった!と、明日報道されても、もうだれも驚かないだろう。

●なぜ人は嘘をつくのか

人はすぐに嘘をつく。嘘がバレると信用を無くす、とわかっていても、やはり嘘をついてしまうのはなぜだろう。

ちょっとしたミスを隠すために、「携帯の電池が切れてた」とか、「家族が急病」だとか「道路が渋滞」だとか、つい、言ってしまう。幸いにして世界のシステムはまだまだ不確実なので、不可抗力だったという言い訳をいくらでも見つけることができる。

自分は悪くない、という正当性を主張するわけだが、自分自身にも嘘をつく。デジクリの原稿がなかなか書けないのは、才能がないからではなく、忙しくて手が廻らないからだ、とか。自分自身でそう思い込む。

そう考えると、嘘をつくというのは自己防衛本能だ。本当の事を言ったら責任を問われる、信頼を無くす。自信を無くす。だから言い訳をしてしまう。自分でもそう信じたい、ということを言ってしまう。

嘘をつくのが上手い人と、下手な人がいる。嘘をついていることが顔に出てしまう、という人。笑ってしまったり、隠し通せない人。逆に嘘をつくのが上手い人、というのは嘘をついていることがばれていないので、日常で観測されることがほとんどない。

「トリビアの泉」というテレビ番組で、女優の緒川たまきがカメラに向かって「嘘つき」という名物コーナーがあった。ネットで探せば出てくるが、いろんなパターンの「うそつき」があって面白い。許せない嘘、バカバカしい嘘、冗談としての嘘、うれしい嘘……嘘をつかれていた側は本気で怒るのか、笑って許すのか。嘘がばれたとき、嘘をつく側とつかれる側それぞれの本心がわかる。

●だます快感

「ガタカ」「シモーヌ」が映画として魅力的なのは、観客が共犯者である点だ。嘘を暴く方ではなく、嘘を突き通す側。いつばれて、破滅するかわからない、危ない橋をドキドキしながら嘘を重ねてゆく。

嘘をついて人をだます、というのはものすごく楽しいことだ。欺くためにあらゆる可能性を検討し、芝居をし、ねつ造し、アリバイをつくり、万全を期してから、嘘をつく。ばれたら身の破滅、というリスクが高いほど、嘘をつくことは、スリリングで楽しい。

先の事件の当事者たちは、はたして嘘をついている時、良心の呵責にさいなまれて、眠れぬ夜を過ごしたのだろうか?そういう気持ちもあったかもしれないが、でも、あれだけの大嘘をつくのは、実は楽しかったのではないか、とも思う。

●嘘はいけないことなのか

子どもの頃、嘘をつくとよくしかられたものだ。もちろん子どもだから、こっそり食べたお菓子を、弟のせいにしたり、といったことだ。昔話でも、嘘を戒めるものは多い。ピノキオは嘘をつくと、鼻が伸びる。鉄の斧を金の斧と偽った木こりは、すべてを失う。因幡の白兎は嘘がバレて皮をむかれる。

嘘を戒める最もよく出来た話は、「オオカミが来た」と嘘をつく少年の話だろう。オオカミが来た、と嘘をついて村人をからかっていた少年が、やがて信用を無くし、本当にオオカミが来た時にだれも信じてくれなかった、という話だ。

ところがこれとは反対に、巧妙な嘘で「相手をだます」ことを賞賛する話もある。長靴を履いた猫は、農民の若者を貴族に偽装する。カチカチ山でウサギはタヌキをだます。猫もウサギも、だましたことを責められることはない。

これらの話はだまされるものの愚かさ、だます側の賢さを語っている。そうなのだ。どんな嘘をついて人をだましても、だましとおせれば勝者なのだ。

だますか、だまされるかというのがスリリングで楽しいのは、知恵比べ、知的バトルだからだ。どちらが頭がいいのか。先を読む、裏をかく、先手を打つ、トラップを仕掛ける…いつだってだました方が勝者で、だまされた方は敗者だ。

60年代に「スパイ大作戦」という、アメリカのテレビシリーズがあった。ミッション・インポッシブルというタイトルでリメイクされているが、元のドラマはずいぶんと雰囲気が違う。テレビシリーズでは、特殊任務を負ったスパイ達が、あの手この手の大芝居で、敵をだまし、仲間割れをさせたり、機密をもらしたりという、だましの手口が見所だった。

合衆国の安全を脅かす敵をだまして、安全を確保する。正義があれば人をだましてもいい、とも取れる話だが、主人公たちは常に知的なヒーローとして描かれる。ぼくはこのドラマが大好きだった。

正義かどうかはともかく、社会通念上は、だますことは許されず、だまされた者は被害者とされる。しかし、それはだましていたことがばれたから逆転しているのであって、何年もだまし通してきた者は勝者だ。

●だから嘘はやめられない

この正月、なんとなくテレビを見ていたら、どのチャンネルも「ドッキリカメラ」、一人のタレントを寄ってたかってだます、という番組をやっていた。架空の番組をでっち上げて大失態をしかける。

その時はまぁ、なんとくだらない、と思ったのだが、これは人間の本能なのだろうと思う。嘘をつく。人をだます。学校でいじめはなぜ無くならないのか。職場でなぜパワハラが無くならないのか。それが人間の本能だからだ。なぜ本能なのか?それは誰かをだますことで、自分が優位に立てるからだろう。

テレビの中だけの話ではない。クリスマスシーズンになると、おとなたちはこぞって、子どもにサンタクロースが存在するという嘘をつく。「子どもの夢をこわさない」なんて嘘だ。子どもよりも自分が優位に立っていることを確認したいだけなのだ。本当に子どものことを思うのならば、子どもにサンタクロース伝説について話をしてあげればいい。そして、サンタさんの代わりだよと言ってプレゼントをあげればいいだろう。どこかで常に、子どもが自分より愚かであって欲しいと思っている。子ども側にしても嘘をつく。言い逃れの嘘は叱られるが、害のない嘘なら大人は笑って受け入れてくれる。そうして人は嘘に慣れていく。

サプライズパーティというものがある。当事者に隠しておいて、こっそり御祝いの席を設けるというヤツだ。あれも当事者を喜ばせる、ということよりも、当事者をだましている仕掛け人の方が優位にある快感があるからだ。

では、嘘をつくのは人間だけだろうか。犬や猫は、嘘というか、失敗をごまかしているような行動をすることがあるそうだ。仮病のような行動をとることもあるらしい。考えて見れば、昆虫や鳥の擬態も相手を欺くための用意周到な嘘だ。食虫植物など植物ですら、トラップを仕掛け、相手を欺く。自然界は相手をだます仕掛けだらけだ。

とすると、嘘というのはごく、自然な行動ということになる。

●わたしたちは騙されたい

嘘、人をだます行為は、悪意から来るばかりではない。

最初は事実だったことを、おもしろくするために誇張して伝える。尾ひれをつける。語る順序を工夫することで人を引き込み、盛り上げる。それは「芸」となり「文化」となる。小説もマンガも映画も、フィクション作家はみんな、嘘つきだ。役者やアイドル、マジシャンもそうだ。イラストレーターも、画家もそうだし、写真だって「どうやったらこの場所をこんな風に撮れるんだ?!」というくらい、嘘をつくのがうまい。嘘を喜んでくれる人がいるから、嘘をつくことを仕事にできる。そう、嘘を喜んでくれるのだ。

嘘をつく能力が要求されるもうひとつの職業として、政治家があげられるだろう。おそらくはほとんどの政治家は嘘をついているし、人をだまそうとしている。なぜ、政治家は嘘をつくのか。フィクションと同様に、皆がそれを喜ぶからだ。

辛い真実を告げる政治家よりも、夢を語る政治家がいつの時代も選ばれる。失敗を反省する政治家よりも、都合の悪いことをを無かったこととして説明できる政治家が選ばれる。これは民主主義というシステムの欠陥だが、今のところ世界運営の最新システムであり、これ以上のシステムが生まれるまでは、この欠陥は「部品の取り替え」という対症療法でしか運用できない。

政治家の嘘が明るみになる度に人々は「嘘をついていた人間を信用できない」と言って怒る。でも、ひょっとするとどこか心の底では、嘘に怒っているのではなく、気持よくだまし通してくれなかった政治家の無能さに怒っているのではないか。小説の読者や、映画の観客同様、みんな、うまくだまされたいのだ。ずーっと気持ちよく、だまし続けていて欲しいのではないか。

●嘘をつかなくていい社会

書の架空人物と、音楽のゴーストライター。2つの事件は芸術や身障者に対する印象を大きく損ねるという意味で、直接の関係者以外にも大きな迷惑をかけている。

しかし、ぼくは本人たちが悪者なのかどうかより、そういった嘘をついてしまう背景の方が気になる。

おそらく当事者たちは、自分がいる世界で、自分の居場所を維持するために、嘘をつくことを選んでしまったのだろう。周りを裏切らないために。体面を保つために。そう見られている自分を演じ続けるために。そう考えると、だれでも同じことを選択してしまう可能性は十分にある。学校で、家庭で、会社で、役所で、政府で。

おそらく、社会が正義や効率というものを推し進めようとする中で、様々な無理や失敗が生まれる。それを許さない空気が、たくさんの嘘を生む。正直にいたいと思いながらも、その場所に居続けるために嘘を演じる。

こういった事件が起きると、再発防止のために、様々な規制や監視を強化しようとする人たちがいる。しかしそれはもっとたくさんの嘘ツキを生むか、もしくは嘘をつくことができずに、その社会からの脱落してしまう者を生むだけだ。

人間はすぐに嘘をつく。そして、嘘が大好きだ。だから、ぼくらが目指すのは、嘘を許さない世界ではない。必要以上に嘘をつかなくてすむ世界なのだ。

初出:【日刊デジタルクリエイターズ】 No.3650    2014/03/05

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