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ユーレカの日々[26] 「妄想学研究序説」

この夏、セブン-イレブンの100円アイスコーヒーにはまり、しょっちゅう買って飲んでいた。ミニストップやサークルKでは随分前からコーヒー販売を実施していたが、セブンイレブンは今年からの本格参入だそうだ。

 

コンビニ各社、コーヒーメーカーシステムと販売方法は様々。アイスコーヒーの場合、他社ではレジ内のアイスメーカーで氷をカップに入れてもらう、というスタイルが多いが、セブンはアイスクリームコーナーなどにある「氷の封入されたカップ」をレジで精算、自分でコーヒーメーカーにセットするという方式だ。レジ内に製氷機を設置しなくて済むし、店員の負担もない。衛生的でもある。うまく考えたものだ。

なので、セブンの氷はロックアイスだ。他社の氷よりも硬くて溶けにくい(気がする)、暑い日にガリガリかじるのがうれしい。また、コーヒーメーカーはその場で豆から挽いてドリップするので、ホットでもアイスでも、香りがいい。

実際、今年の大ヒット商品となったという。

 

コーヒーとして特別美味しいかどうかはわからないが、アイスコーヒーはかなり好みの風味だ。100円で呑めるコーヒーとしてのクオリティはトップクラスだろう。少なくとも缶コーヒーよりも断然美味く、安いのだ。

 

●フタが気になる

さて、セブンでコーヒーを呑む時、ちょっとだけ気になることがある。氷を入れたカップを封印している、フィルム製のフタだ。丁度カップヌードルのフタのようにカップに接着されていて、それをペリペリと剥がして、近くのゴミ箱に捨てるのだが、このフィルム蓋がどうも気になってしょうがない。

 

カップヌードルであれば、フタは麺やら、かやくやらを守る大切な役割がある。しかし、コーヒーカップのフタは、コーヒーと出会わずに捨てられる運命なのだ。

 

フタは工場からロックアイスを保持し、レジまで安全に氷を運ぶための役割を担っている。しかし、「コーヒーを呑む」という本来の目的のためには「捨てなくてはならない」というなんだか矛盾したような存在で心が痛む。

 

さらに言えば、この円形のフィルムを生産するにあたっては、おそらく大きなフィルムのロールに印刷がほどこされ、型抜きされているはずで、じゃあ、その型抜きされた後の、「フィルムの使われなかった部分」の事を考えると。さらに無念でしょうがない。

 

恐竜だとか様々な生物の遺骸が100万年以上もかかって、地下で石油へと変化する。それが人間の手によって採取され、樹脂フィルムに姿を変える。それが何の因果か、たまたまコーヒーカップの蓋の用途に供されることになる(ドキドキ)。いざ、フタに成ろうかというその時、「余白」の方にあたってしまい、世にでる機会を失う。

 

もちろん、余白には余白の機能がある。余白がなければ、フタ部分を保持することができない。印刷も困る。立派な機能だ。そしてその余白部分はおそらくリサイクルされて、他の製品に使われる。

 

でも、である。せっかく、ツルツルのピカピカで透明で、衛生的にも完璧な状態のフィルムにまで加工され、光り輝くコンビニの店頭を飾る運命まであと一歩のところで、余白にまわってしまったばっかりに、再び溶かされ、違う運命を余儀なくされる。

 

職業に貴賎はないように、人種や思想信条に貴賎はないように、石油にもフィルムにも、再生プラスティックにも貴賎はない。

だけれども、やがてリサイクルされ、薄暗い倉庫の片隅で、運搬パレットかなにかに生まれ変わったフィルムが「ああ、一度は明るいコンビニの店頭でお客さんの手にとってもらいたかったなぁ。でもカップの蓋の人生なら、多分焼却されるんだから、今の人生の方が長生きできてよかったんだよな」とか思っているかと思うと、胸が締め付けられる。

 

●妄想という文化

…てなことを、アイスコーヒーのフタを捨てるたびについつい考えてしまうのだが、そういう話をするとわかってくれる人は、あまりいない。人はこれを「妄想」と呼ぶらしい。

 

子どもの頃はみな、妄想好きだ。男の子も女の子もゴッコ遊びに興じる。石ころや動物や昆虫や植物や雲や月に話しかける。それらの存在を擬人化し、考え方や行動を勝手に想像する。

童話の影響もあるだろうが、知識や経験に乏しい子ども時代は、何事も自分自身に照らし合わせるしかないから、自ずとそういった発想になるのだろう。

 

物語が好きなのは、人間の本能のはずだ。お伽噺であれ、史実であれ、ウワサ話であれ、様々な物語に皆、興味を持つ。それは物語が人間にとって有用な参考、「リファレンス」として機能するからだ。物語に興味が持てない人間は、自分の経験しかリファレンスにできない。そういった人間が様々な問題に対処できる可能性は低い。

 

さらに、日本人は昔から、自然のモノや現象に触れて、そこに人格を見てきた。八百万の神々だ。巨木を見て、いきなりそれに人格を見るわけではない。その巨木がたどってきたであろう長い歴史という物語を想像し、感情移入する結果、人格化する。つまり物語の方が先なのだ。外来宗教である仏教が入ってきても、神仏習合といって日本の古神道と混じり合い、仏教世界の様々なキャラクターが信仰の対象となる。

 

そういった文化的な土壌があるから、日本人は現代でもキャラクター好きだ。日本中ありとあらゆるところにキャラクターが存在する。今年の「ゆるキャラグランプリ」のエントリーは1000キャラを越えている。城だろうがクマだろうが食べ物だろうが、身の廻りのありとあらゆるモノを人格化している。ドラマを想起してもらうために、広報キャラクターは活躍する。

 

こういった傾向は世界的にはあまり類を見ないと思う。アジア文化圏のキャラクターが好きに対し、欧米文化圏ではキャラクターは子ども向きのもので、大人向きの商品や企業キャラはほとんど見られない。キリスト教やイスラム教では偶像崇拝が禁止されていることが文化的な背景にあるのだろう。

 

日本ではキャラクター以外でも、様々なところで妄想力を見ることができる。庭に岩と砂利を配置したものから多島海を妄想させる枯山水。富士山のミニチュアを作って詣でた富士講の富士塚。落語でも茶道でも、様々なものを何かに「見立てる」。リアルに語ったり描いたりするよりも、あっさりと語るだけで相手の妄想力を刺激することを好む。

 

日本文化を語る上で、妄想力は欠かすことができないのだ。

 

●社会と妄想の関係

さて、子どもの頃は妄想力全開だった人間でも、色んな事を学んだり経験するうちに、妄想力がだんだん弱まってくる。漢字の形から色々妄想を楽しむことが許されるのは低学年だけで、書き順や読み方を憶えさせられる。「花子さんは100円のチョコレートを三枚買って」という算数の問題で、花子さんが選んだのはどんなチョコなのか、お店の人は男性なのか女性なのか、というような事ばかり気にしていると「そういうことは無視しなさい」としかられる。妄想力はどんどん、弱くなっていく。

 

しかし、もうちょっと成長して中学二年生になるとまたまた妄想が発病する。自分は実は超能力を持っているはず、だとか、世界を変える運命にあるといった妄想に取り憑かれる。中二病というやつだ。

 

中二病は思春期のハシカみたいなもので、たいていの人はふたたびリアルな世界と向かい合うようになるのだが、一部の人間は中二病をこじらせてしまう。二十歳になっても妄想癖が治らない人を世間では「おたく」とか「腐女子」と呼ぶ。

 

たとえばおたくは、ガンダムのような巨大ロボットが大好きだ。物理的に絶対成立しないのをわかっていながら、小さなフィギアを手にあれこれ妄想する。

 

たとえば腐女子は、擬人化が大好きだ。わたしは腐女子ではないのでよくは知らないが、あれやこれやを見ると、なにやそれやと妄想するらしい。

 

おたくや腐女子も、社会に出ればそういった部分は相手に隠して、社会に適応して生活をしている。なぜ隠すのかといえば、妄想というのは社会的にはあまりよいイメージで考えられていないからだ。「人の話を聞いていない」だの「集中力がない」だと言われてしまう。人の話は聞いていなくても虫や石ころの話はものすごい集中力をもって聞けるのだからいいようなものだが、この年頃になるとそういった人間はすっかり少数派になっているため、なかなかわかってもらえない。

 

おたくや腐女子は、そういったことをわかってもらえない人に、それを説明するのがとても大変で報われない、ということを子ども時代の経験上よく知っている。

 

こういった人間は現在確認されているだけでも59万人存在している。この数字はこの夏のコミケの3日間での総動員数で、鳥取県の人口よりも多い。コミケに行っていないおたく、腐女子も多数存在しているので、実数はもっと多いはずだ。だいたい、この10倍くらい居るとして、590万人。日本の人口から見れば4%、25人に一人の確率となる。

 

●妄想は不要なのか

おたくや腐女子をさらにこじらせると、作家やマンガ家やアニメ作家や映画監督や美大の先生や評論家になってしまう人が出てくる。お台場に18mのロボット像を建てるビジネスマンや、マンガやアニメを海外に輸出しようという役人も間違いなく、こじらせている。ここまでこじらせれば、なぜか社会的な信頼や地位が出来る。

妄想の巨匠が引退を発表すると、日本はおろか、世界中からそれを惜しむ声が出てくる。世界中の人がもっと巨匠の妄想が見たい、という。どうやら学生時代や社会人にあれだけ忌み嫌われた妄想癖は、社会的に求められているもののようだ。

 

ならば、妄想癖のある人はそれを仕事や活動にすれば幸せになるように思えるが、なかなかそうはいかない。先に述べたように、妄想が止められない人間は、それをわかってくれない人間に説明をすることを避けようとするし、説明も下手だ。

 

妄想を妄想としてちゃんと人に説明することができれば、様々な可能性がひらけてくる。多くのSF小説が、文化のみならず、現実の科学技術に影響を与えたように、妄想の中には様々なヒント、可能性、示唆が含まれているはずだ。

 

たまたま、文章や絵で説明ができる人は作家になったり事業に展開したりできるのだが、「妄想」と「表現」を結びつける教育を受けていないため、そういったことが出来るか出来ないかは個人の資質に頼っているのが現状だ。

 

●妄想と現実の境界

おたくや腐女子は、妄想というものが現実ではないことをよく知っている。知っているからこそ、それを隠して社会に溶け込んだり、密かにコンテンツにして、評価を得たりする。さらに妄想者は、相手も妄想者なのかもしれない、ということを考えるので、相手の言うことを鵜呑みにしない注意深さも兼ね備えることになる。

 

しかし、時々、妄想をこじらせる過程で、その対象を虚構の世界ではなく現実世界に向けてしまう人がいる。計画や事業において、事故を想定してはいけないとか、士気が下がるような発言はつつしむべきだとか、国民はこうあるべきだとか。こういった発言は冷静な態度で現実に対峙できない人が、自分の「そうあってほしい」という妄想を現実社会に持ち込んでいるから出てくる発言だ。

おそらくは妄想というものを禁じられる過程で、それが内面や虚構世界に向かわず、現実世界と見分けがつかなくなってしまっているのであろう。

 

どんなに無茶苦茶で非論理的でも、現実世界を題材にした夢を語る人は評価され、どんなに論理的で思慮に満ちていても、妄想を語る人がさげすまれる。

 

なんだかおかしな世の中だ。

 

●妄想学への道

妄想とはなにか、人はなぜ妄想をするのか。人は妄想と現実をどう区別して認識しているのか。心理学分野では「被害妄想」など病理的な面での研究がなされているが、文化面での「妄想」はまだまだではないか。

 

妄想学会というのを作ってそういうことを研究するのはどうだろうか。世界中から妄想に興味のある人が集まる。様々な事例や研究発表をして、情報を交換する。もちろん二次会は薄い本の即売会だ。そういうのがあればぜひ参加してみたい。

そんなことをしても役に立たない、と思う人は妄想力が変な方向で固まっている可能性がある。そもそも学問はなにかの役に立つからやるのではない。謎と興味を一般化するのが学問の役割だろう。とすれば、妄想学は必然だ。

 

ただひとつ、心配なことがある。妄想学会では妄想に耽る人ばかり集まって、ちっとも建設的な場にならないような気がしてならないのだ。

【日刊デジタルクリエイターズ】 No.3556    2013/10/02

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