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ユーレカの日々[19]「デザインはなぜ無報酬とされたのか」

 

先日、大阪の天王寺区が「天王寺区広報デザイナーを募集」したことが、Twitterなどでちょっとした騒ぎになった。

http://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/tennoji/0000204704.html

ポスター、フライヤー、Webのデザイン、アドバイスをプロアマ問わずに募る、という物だが、これが「無報酬」ということで、あちこちから批判が相次いだのだ。

 

ぼくの仕事であるイラストの世界でも、なかなか対価を理解してもらえないことがある。

ちゃんとした出版社、代理店ならなんら問題もないが、たまにベンチャー系の企業などからケタ違いに低い条件でのオファーが来ることがある。そういう場合、相場とその理由を丁寧にご説明し、丁重にお断りするのだが、今度はそのケタ違いに低い条件で「学生を紹介してほしい」なんてことを言われ、これも丁寧にお断りする。

デザインの世界でも同様のようだ。デザインに対して正当な対価がなされないという話をよく耳にする。

どうして、デザインやイラストに対して、対価を認めない風潮がいつまでたっても変わらないのだろうか。

 

●技術が表現を無償化する時代

 

デザインがデジタル化する以前は、デザインは特殊な技術だった。写植を発注する。写真をレイアウトする。版下に線を引き、見だし文字をレタリングする。製版をチェックし、修正指示を出す。こういった作業がDTPの登場により、だれでも簡単にできるようになってしまった。

絵もそうだ。パソコンを使えばだれでも「はみださずに色を塗れる」「きれいなグラデーション表現ができる」。プロにしてみれば、「そんなことで絵を評価するなんてナンセンス」だが、でも、おそらく一般の人達というのは、そういった部分を「プロ」として評価して来たのだ。

実際、写真がそうだった。その昔、プロが撮った写真は「ピントがあってる」「露出が適正で立体的に見える」から、対価を支払うだけの価値があった。やがてカメラが進化し、ピント、露出はもちろん、逆光や顔を検知して「適正な写真」を撮影し、しかもその場でプレビューできる時代になった。大きな失敗がなければ、失敗をしないプロに頼む理由は無くなる。

そうやってデザインにしろ、イラストにしろ、写真にしろ、「だれにでもできる」ことになってしまい、それに対する対価というものがどんどん低くなってしまった。

 

●芸術とはなんだろう

そういった時代背景もあるのだけれど、それとは別に、どうも以前からデザインやイラストというのは世間一般に理解されないように思う。「趣味」や「感覚的」ということで、正当な労働評価がなされないケースが多い。

この世間の理解不足は、日本の美術・デザインが怠ってきた、世間に対する「説明不足」の問題が大きい。

美術やデザインに携わってきた人間が「デザインは世界を豊かにする」といったあいまいで感覚的な説明しかしてこなかったため、「美術という世界は感覚的なものに対して対価を払う」という印象を一般の人に植え付けてしまったのだ。

 

さらにこの背景には、「美術・デザイン」が「芸術」との違いを明確にしてこなかったことがある。

「芸術」という言葉は定義がやっかいだ。美術史をかじったことがある人間なら、写真や複製の技術の発達とともに、実用絵画がファインアートに分岐していったことを知っている。明治期に西洋文化としていきなり芸術という概念が入って独自の解釈が生まれたことや、現在でも日本と海外の芸術という意味が違うことを知っている。また、音楽や舞台にまでジャンルを拡げればこの言葉に対する解釈も実に様々だ。それはものすごくヤヤコシイ話なので、ここではあくまでもぼく流の、一般の人に対してわかりやすい「芸術」の説明だと思って読んで欲しい。

 

●芸術とスポーツは同じ

一般の人に芸術とはなにかを説明する時、一番わかりやすいのは「芸術はスポーツと同じ」というたとえだ。

スポーツをする人は多い。ジョギング、水泳といったものから、チームスポーツまで様々だ。プロを目指す人もいるが、それは少数で、ほとんどの人は「自発的な楽しみとして、自腹を切ってやる」のが普通だ。スポーツをしたらお金がもらえるからやるっていう人はまぁ、いない。

じゃあ、プロスポーツというのは何なのかというと、優れた選手にスポンサーが付く、ということだ。チームに所属する選手は年俸制だし、ボクシングなど賞金を稼ぐスポーツでも、勝っても負けても「ファイトマネー」が支払われる。

 

では芸術を考えて見よう。絵を描く、音楽を演奏する、写真を撮る。多くの人々が「楽しみとして、自腹を切ってやる」。スポーツ同様、表現するという行為が面白いからだ。

すぐれた表現者であれば、絵やCDや写真集が売れる。そのことからなんとなく、プロは「作品を売ってお金を得ている」ように思えるが、実は違う。スポーツと比べてみると、それが間違いであることに気がつく。

 

プロ野球やJリーグの選手は、試合を見せることでお金を得ているのかというと、そうではない。その人達がすぐれた選手であり、その人たちが行う試合だから、人々はお金を払うのだ。試合という行為にお金を払っているのではない。だから草野球の試合でお金を取ろうと考える人はいない。

 

芸術も実はこれと同じだ。すぐれた作品を作る人たちだから、その人に対してお金が支払われる。作品、という物質は、スポーツの試合と同じで、単なるその「証拠」にすぎない。

 

定義しよう。

芸術もスポーツも、自発的な行為であり、「本来それで対価を得られるものではない」のだ。一部の優れた行為者だけが、その人に対しての対価を世間から得ることができるのだ。

こう考えると、この天王寺区のように世間一般が「デザインやイラスト」の対価に納得してくれないことにものすごく合点が行く。世間一般はデザインやイラストを「芸術」だと思っているのだ。

 

だから、「あなたはそんな有名でもないのに、どうしてお金を取るの?」ということになるわけだ。

 

●デザインは「設計」だ

では、デザインやイラストレーション、コマーシャルフォトというのは何なのか。これらを「芸術」というカテゴリーで語るから、一般の人たちは誤解する。

 

これらは「設計」と言った方がずっとわかりやすい。

 

建物や機械を作るのには、設計が必要だ。単純なものなら簡単な設計、複雑なものなら高度な設計。設計図がなければ、なにも作れないことは、だれでもわかる。

デザインはあきらかに設計だろう。印刷物、広報物の設計。

イラストレーションもコマーシャルフォトもまた、設計だ。アウトプットが印刷物にせよ映像やWebにせよ、目的を達成するために、ノウハウを尽くした設計を行う。イラレでレイアウトしたり、ペンタブレットで描いたりする以前の「設計」が、これらの仕事の本質だ。

 

設計だから、その作業、アイデアに対して、対価が発生するのは当然だ。熟練しかなしえないノウハウが活かされた「匠の技」に、だれも無償、とは言えまい。

江戸時代以前、建築という言葉が日本に入ってくる前は、建物を建てるのは大工の仕事だった。家を作る時には棟梁と「間取り」だけを相談したら、あとは適当に作ってくれたという。現在の建築業界では設計管理費は工事費総額の10%〜15%と「決まって」いる。基本的に町の工務店でも、世界的に有名な建築家でも、同じらしい(住宅メーカーなどでは設計管理費は無償という場合もあるらしいが、これは先の大工仕事と同じ本体価格に含まれるという考え方だ)。これがいいか悪いかはわからないが、デザイン料というものが本来、このように明確であれば、今回の天王寺区のような「無償」なんて話は出ないんじゃないだろうか。

 

図書館に司書が必要なように、経理・税務に資格が必要なように、本来であれば広報やデザインにも教育と技術、論理が必要だ。しかしそれを一般の人に説明できてこなかったこと、芸術として語ってしまったツケが、不理解に現れているのだ。

 

こう考えると、デザインやイラスト、マンガでプロを目指す、というのは正しく、わかりやすい。設計技術と施行技術を身につける、ということだ(マンガの場合、作家に依存するという部分も大きいが、これについてはまた別の機会に)。

これに対し、芸術で身を立てる、というのは選ばれた人間が結果的にそうなっているだけで、目指してどうなるというものでは無いことがわかる。目指すのは勝手だが、芸術の本質はそこにはない。

 

デザインやイラスト、マンガの世界に身を置いている人でも、当然、この考えに反発を覚える人も多いだろう。このジャンルでも「芸術」であろうとする人は多い。だけど、これらのジャンルを「芸術」と説明してはいけないのだ。

絵という表現が同じなのでみんな混同しているが、これも考えて見ればおかしな話だ。「文学」と「法律文章」はどちらも言葉で書かれる。これを混同する人はいない。

 

デザインと芸術、どちらが偉いという話ではない。全く別のものなのだ。

 

ここをはっきり説明していかないと、いつまでたってもデザインやイラストは一部の天才以外は仕事として成立しない世界になってしまう。

 

●天王寺区はなにを間違えたのか

今回の天王寺区の話を、そういう考えで読み解くと何が起きたのかよくわかる。

どうやら天王寺区は芸術とデザインを混同してしまったのだ。本心は「芸術をやりましょう」と言いたかったのではないだろうか。

「広報ボランティアアーティスト募集!アートの力で天王寺区を活性化しよう!」だったら、多分だれも大騒ぎしなかっただろう。

芸術であれば無償であることが当然だ。自発的であり、楽しみであり、文化だ。行政が芸術をするのであれば、それは評価の高いプロ芸術家に費用を割くだけでなく、広く一般にも芸術の機会を提供するのは、正しい。

 

結局、この騒ぎは天王寺区が説明不足を謝罪し、主にアマチュアを対象としたボランティア募集に修正したことで落ち着いた。

 

●デザインをボランティアにしてはいけないわけ

しかし、ぼくには天王寺区が「デザインをボランティア」と言ってしまったのが致命的な失敗に見える。無報酬、またはアートであれば何も問題がなかったのに、「デザインをボランティア」は絶対にダメだ。

ボランティアという用語を辞書で調べてみると「自主的に社会事業などに参加し、無償の奉仕活動をする人。(出典:デジタル大辞泉)」とある。「奉仕」と言われたとたん、「税金払ってるのに、なんでさらにただ働き」となってしまう。

 

主にアマチュア対象とすることでボランティアはデザインの啓蒙教育活動となる、という考えが行政や教育の現場でみうけられる。しかしこれはとんでもない話だ。アマチュアが手を出すことで、レベルは下がり、相場は下がり、プロは仕事を失い、業界は縮小する。だれも幸せにならない。

こんなことが正しいなら、じゃあ区役所の設計を学生にやらせるのか。公用車の設計を学生にまかせられるのか。ちょっと考えればわかることなのに、デザインと芸術を混同してしまうことで、このようなとんでもないことが起きてしまうのだ。

 

●本来のボランティアは奉仕ではない。心意気だ。

しかし、ボランティアと言う言葉を今度はwikiで調べてみると「奉仕」という意味は本来ほとんどなく、「自発性、無償性、利他性、先駆性」の4つの要素とある。

 

言い換えれば「だれに頼まれたのでもないのに、ミンナのためにタダで新しいコトをする」ということ。なんてカッコイイ!これはもうマンガ・ワンピースの世界だ。ワンピースのルフィの行動を「ボランティア」と説明したら、みんな「ショボーン」となるだろう。ボランティアという言葉が日本では特殊な意味合いで使われてしまっているのだ。

 

本来、ボランティアは「募集」するものではなかろう。ボランティアを組織化したり、マネージメントすることはあっても、「募集」するのは本来の意味である「自発性」と矛盾する。募集するのはやはり、奉仕を求めるからだということになってしまう(もちろんここで言っているのは災害ボランティアなど狭義のものではなく、広く社会活動としてのボランティアだ)。

 

●募集が本来の意味のボランティアだったら…

ではもし、天王寺区の募集が「本来の意味のボランティア」であればどうだろうか。「自発性、無償性、利他性、先駆性」を持つデザイナーを探している、としたらどうだろう。これはなかなかステキな考えだ。

 

もしぼくが天王寺区民だったら、「無報酬」で「デザインに対するアドバイスをする立場」という考え方に共感と可能性を感じる。行政を単なるクライアントと考えれば「とんでもない」ことに違いないのだが、自分が住んでいる町の運営システムと考えれば、住民として自分の持っているノウハウを提供し、自分の町をよくするのはとても楽しいことだろう。行政の広報というのはほんとにつまらないものが多いが、そういったものほど、技巧を凝らしたレベルの高いものでなくてはならないはずだ。さらに無報酬だからこそリスクを恐れない面白いことができそうじゃないか。

 

●このデジクリのコラムも無償で続けている。

ここまで書いて思い出したのが、このデジクリだ。このデジクリの原稿は長年「無報酬」で取り組んでいる。

もしデジクリが「クリエイター向けのメルマガを作りたいのでボランティアで執筆してくれませんか」と言われたら「それは断じて断る」だろう。ぼくが無償で協力しなくちゃいけない理由が見つからないからだ。

そうじゃないのは、デジクリの創始者たちの、自分たちのメディアを持とう、クリエイターが考えていることを既存のメディアではなく自分たちのメディアで発信していこう、という考えに共感できたからだ。

 

デジクリ創刊から15年たつ。メルマガもBLOGも一般的になり、個人がいくらでも自由に発言できる時代になった。メディアを持つことは、デザインをすることと同じくらい、誰でもできる普通のことになった。

 

それでも続けているのは書かざるを得ないから。自分にとって新しいことだから。面白いから。多少でもおもしろがってくれる人がいるから。決してデジクリに協力しているボランティア(奉仕)ではないのだ。デジクリという場を利用しているつもりも、利用されているつもりもない。そこにすべきことがあって、できることがあるから、やっているだけ。本来の意味のボランティア(自発性、無償性、利他性、先駆性)なのだ。本来のボランティアの意味が伝わらない以上、「無報酬」の方がよっぽど、その心意気を示していると思う。

 

「設計」と「芸術」をいっしょにしてはいけない。「奉仕」と「ボランティア」をいっしょにしてはいけない。この違いを共通認識できれば、その先にもっと面白い世界が待っているだろう。

 

初出:【日刊デジタルクリエイターズ】 No.3420    2013/02/13.Wed

Comments:3

774 2013-02-15 (Fri) 13:09

×ルフィー
○ルフィ

2013-02-27 (Wed) 15:21

なんか的はずれな指摘に思える。
無料での提供を出入り業者に強要したなら問題だが、募集ならば0円で何ら後ろめたいことはない。
応募は任意なのだから第三者がどうこう言う問題じゃない。

近頃はやりの携帯ゲームの画像なんかも一枚500円で募集しているが、これも同じ。
安すぎ?ならば幾らなら妥当と言うのだろう。
健全な価格は需給のバランスによって形成される。
言うだけならば、使ってやるから金を払え、ですら構わないと考える。

繰り返すが、そんなものに応募する奴がいるかは別の話。
それこそあなたの言うとおり「無償で協力しなくちゃいけない理由が見つからないから」。
話をごっちゃにしているのは誰だろうか?

名無し 2013-04-04 (Thu) 15:20

この記事のURLをTwitterで発見したのが平成25年4月4日なので、今更と思われるかもしれませんが、感じるところがあり乱筆乱文ですが書き込みさせて頂きます。
区が無報酬からボランティアという言葉に訂正したその点は、まさに致命的な失敗ではないかと感じます。
私は自発的な行為としてのボランティアを否定する気はありませんが、無報酬とボランティアが混同され、無報酬であることがボランティアの条件であると認識されるような区の対応は、デザイン、イラスト、文章をも含めた幅広いクリエイターの方々へ将来的な影を落とすのではないかと危惧します。

デザイン等の業種に対する区の認識はひどく曖昧に思えます。webサイトのレイアウトや、看板、チラシ、パンフレット等は、「見やすく、誤解を与えず、手に取りやすく」などの工夫に感心することがあり、それを作り上げる製作者の技術に驚かされることが多々あります。
大阪市四天王寺区の報道発表資料を読むと、そのデザイン等の技術を発揮する機会が「無報酬でありボランティアであると印象づけてしまう」ままで、これは発注者から見れば「彼らを使えば仕事の元手がかからない」と印象づけているようなものです。

この誤解が積もり積もった例を1つ、間近で見たことがあります。
知人がある地方の寺院で働いていた時「寺は公共のものだから門を閉じてはいけない」「中には自由に入らせろ」「文化財を所持していれば国から給料をもらえるのだからお布施を払う必要はない」「税金を払わないくせに入場料を取るのは違法だ」「公共の場所だから写真撮影は建物を含めて自由にさせろ」等、この手の観光客が花見のシーズンになれば一日10件、20件以上あり毎日怒鳴って退去させていました。
行政や観光協会は寺院の承諾を得ずに観光地として紹介し、それを見てやってくる観光客の問題には一切協力はありませんでした。

この記事における行政の対応が、今後見直されずに続けば、上記のとある寺院における事例が、デザイン業界でも起こってしまうのではないかと危惧してしまいます。
その道のプロに仕事を頼むとき、発注する側としては効果・予算・納期に期待値を見るはずですが、値切り過ぎれば成り立たなくなるでしょう。
この記事を読み、「要求する技術を発揮してもらうには、技術を維持するに必要なものがある」と、改めて認識する必要が有るなと感じました。

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「デザインはなぜ無報酬とされたのか」に対する芸術家からの反論: 以前話題になり批判が盛り上がった件の「天王寺区広報デザイナーの募集」について、 イラストレーターの方による論評を見かけたのですが、ここでは芸術家の立場からの再反論をしたいと思います。
2013/02/16 03:03
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