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ユーレカの日々[15] ヒトOSはバージョンアップできるのか

iPhone5がリリースされ、iOSも6にバージョンアップされた。以前のiPhoneやiPadでも、OSを新しくすれば機能が増えたり、新しいサービスを受けることができる。逆にGoogle Mapのように、今まで使えていた機能が使えなくなることもある。パソコン使いからすればこれは当たり前の感覚だが、従来のケータイ電話では有り得なかったことだ。OSという考え方も随分と一般化してきた。

はじめてOSという言葉を聞いたのは、今から30年近く前、MS-DOSがリリースされた時だ。

それ以前のパソコンはBASICという、OSも開発環境も実行環境もいっしょくたになったモノで動いており、フロッピーディスクという円盤に、ワープロなど単品のアプリといっしょに収録され、そのディスクでパソコンとアプリを起動していた。ゲーム機同様、ソフトのディスクを選んで起動する、という使い方だ(おっと、よく考えれば今のゲーム機はディスクを入れなくてもOSが起動する。この状態すら説明がしにくくなっているんだなぁ)。MS-DOSの時代になり、なんとなく「OS」というモノを意識し出すのだが、それでもしばらくは「フロッピーから直接起動」だったので、開発者でなければOSやバージョンの違いなど意識する必要はなかった。

実感としてOSとアプリ、そしてハードという3つの要素を理解したのはMacを購入した時だ。当時「漢字Talk6」というOSだったのだが、英語のシステムが日本語化されるのに半年以上のタイムラグがあった。待ちきれないユーザーは英語のOSを手に入れ、新機能をいち早く体験しようとした。


●ヒトのOSってなんだろう?
バージョンアップが話題になるたびに、「パソコンは簡単にバージョンアップできていいな」と思う。人間はそうはいかないからだ。今回、iPadのiOSのアップデートとアプリのアップデートをしながら、ふと、「そもそも、OSというのは、人間にたとえればなんなんだろう?」と考えた。

人間とコンピュータを比較してみる。ハードウェアは肉体だ。どちらも耐用年数があり、個体差、性能差がある。これはわかりやすい。

これに対し、精神=ソフトというたとえがあるが、ソフトにはアプリ、OSなど役割が異なる存在があることを思うと、単純に「精神=ソフト」というのはあまりにも乱暴だろう。

仕事や学習、生活で会得した「できること」「経験」はなにか?たとえば学習により外国語をしゃべれるようになる。仕事や育児の経験で様々なことを知り、できるようになる。パソコンにたとえればこれは本体の変化ではない。本質的な変化ではないし、どれを会得するか選ぶこともできる。そう考えると、欲しい機能の「アプリ」を買ったりダウンロードしてインストールしているのが近い。

じゃあ、人間にとって、OSに該当するのはなんなんだろうか?
OSとはオペレーションシステム。パソコンの様々な部品を秩序だてて管理運用する、基本ソフトだ。じゃあ、それは人の脳なのか?無意識?反射神経?あるいは魂?うーん、どれもいまいちピンとこない。技術者でない僕にはパソコンのOSの説明もわかってるようで、イマイチよくわからない。

●設計思想がOSを決める
見方をチョット変えてみよう。そもそも、コンピュータのOSはなぜバージョンアップする必要があるのか。
それは、設計思想の更新だ。インターネットやデジタルビデオが普及する前と後とでは、できることも、使われ方も次第に変わっていく。ハードももちろん変わる。単純に新しい機能や使われ方に対応するのであれば、マイナーアップデートや、追加機能でことたりる。でも基本設計が古い以上、それにはいつかムリが来る。「ビフォーアフター」という家を改築するテレビ番組があるが、あれを見てると改築の対象となるのは「とんでもない家」。新築時はまともだったのに、対処療法的な改築を続けた結果どんどんおかしくなってしまってしまい、ついには徹底的な改築が必要、というパターンだ。これと同じで、OSには時々、その時代時代での環境に適合した「新しい設計思想」が必要となる。

そう考えると、人間のOSというのは、その人間が「いつ、どこで生まれ育ったのか?」「どのような基礎教育を受けてきたのか」ということになりそうだ。
たとえば、戦前生まれが受けた教育と、2000年代の教育は、その背景にある「設計思想」がまったく違う。もちろん国や、地域、風土によっても違う。受けてきた教育や社会環境が「ヒトの設計思想」となり、それが「あることをしたとき、どう反応(感じる)するのか」「何を大切だと思うのか」「何を生きがいと思うのか」「行動するときに何を優先させ、どのような手順で行うのか」を大きく左右する。
「人格」という言葉がある。この言葉は、個性だとか人柄だとか、そういった概念だが、これを「OS」と考えると、その役割が明確になるような気がする。そこでこれを「ヒトOS」と呼ぶことにしよう。

ハード:肉体
OS:ヒトOS 人格
アプリ:能力 経験や学習によってできるようになったこと


●OSに起因するトラブル
今回のiPhoneのOSバージョンアップを見てみると、バージョンアップすることで、2つのことが起きる。
ひとつは、GoogleMapのような今まで動いていたアプリが新しいOSでは動かない。
もうひとつは、新しいアプリが古いOSでは動かない。
さらに、siriやテザリングのように「全体としては動くけど、一部不具合や機能しない」なんてこともある。

どうやら、ヒトOSも同じようなことが起きるようだ。

例1:スマートフォン
異なるヒトOSに、「スマートフォン」というヒトアプリをインストールしてみよう。たとえば、60才以上の人で、スマートフォンの意味を理解できる人は少ないだろう。使っていたとしても、なんとなく「いろんなことができる電話」程度の認識。電話や手紙の延長上でしかないだろう。
それに対し、すでにコンピュータがある社会という設計思想のもとに形成された「20代ヒトOS」の人なら、何が新しくなって、自分の生活がどれだけ便利になるのかをかなり的確に理解できる。それまでの電話とはまったく違う、新しい可能性を見いだす。

この例では、OSが異なれば、同じ種類のアプリを入れてもその意味合いがまったく違うことを示している。パソコンの例でいえば、20年前のパソコンと今のパソコン、どちらもブラウザでWebを見ることができるが、20年前のブラウザではビデオチャットなどのサービスを受けることができないようなものか。

例2:エヴァンゲリオン
とある教え子が高校の時の同級生の元ヤンキーと再会し、高校当時ほとんど共通の話題がなかったのに、エヴァンゲリオンの話題で盛り上がったという。
ところが、話が進むにつれ、ズレが生じてきた。その教え子は「アニメオタク」の視点でエヴァを語っていたのが、相手の元ヤンは「パチスロ・エヴァ」の視点でエヴァを語っていたのだという。同じキャラクターの話題でも、これでは食い違うはずだ。

この例は、OSの違いによるディスコミュニケーションだ。パソコンで言えばMacとWin。今はほとんどのファイルを問題なくやりとりができるが、それでもビデオ関連など機能拡張を入れておかないと再生できないファイルも存在するし、文字化けや改行が異なることは未だに多い。「おおむね意味は通じる」けど「同じ」ではないのだ。

例3:経営危機
シャープに代表されるように、ほんの数年前まで順調だった企業がちょっと流れを読み違えただけで大きく傾く。彼らだって慎重に会社を運営してきてたはずだ。経験豊富なリーダーが、最新の情報で判断してきたはずだ。

この例では、会社の経営陣をOSと考えてみる。経営陣というOSは自分の経験をフル活用してちゃんと仕事をしてきた。各アプリ(人材や商品やサービス)はちゃんと機能していた。しかし、その設計思想、「大企業、巨大メーカーを運営する」「経済的に発展を続ける」という設計思想が、今の時代に合わなくなってきてたんじゃないだろうか。ぼくは経済の素人だが、AppleやGoogle、Amazonという企業は「経済的に発展をし続ける」ことを絶対的な目的としていないように見える。


こんな風に書くと、古い世代は全然ダメなように思えてくるが、ヒトの世界でもコンピュータの世界でも必ずしも最新OSが優れているわけではない。逆の例もある。
実務においては実績のない新OSより、枯れたOSを選択する場合も多い。実際Windows XPはメーカーの予想以上に生き残った。Mac OS9でアプリを供給していたベンダーがOS Xになった時点で撤退した例もある。
ヒトOSにおいても、新しいヒトOS(新人)が使い物になるまでしばらく運用実績というものが必要となる。古いヒトOS(ベテラン)でしか動かないアプリ(=技術、技能)もたくさんある。
もっともベテランがのさばって、新人にチャンスが与えられないWindows XPの時のような現象もあるのだが。

●ヒトOSはバージョンアップ可能か?
では、OSのバージョンアップはどうだろう?
アプリ(=できること)の追加は、教育や経験を重ねることで可能だ。
しかし社会的背景を設計思想として、生まれ育った環境と教育によって刷り込まれた「ヒトOS」のバージョンアップは可能なんだろうか?

ヒトが社会に出る以前と以後、成人とか卒業とか、そのタイミングをヒトOSのリリースと考えると、幼年期〜学生時代に受けた刺激はヒトOSの設計思想に組み込まれていると考えられる。

たとえば僕は中学時代にマンガやアニメ、大学時代にコンピューターという大きな存在と出会って、それにより今の自分が形成されている。これに生まれ育った関西という地域性やらなんやらがごちゃまぜになって、僕のヒトOSの設計思想となっている。

これに対し、社会に出てからの経験や受けた刺激は、量としては学生時代よりもずっと多いのだけれど、ぼくの人格に及ぼした影響は幼年期のそれと比べるとずっと小さいように思える。たとえばインターネットという存在は社会に出てからだけど、ぼくはどうしてもそれを、雑誌や通信という旧来のメディアの延長として捉えてしまう。この捉え方は、生まれた時からネットやゲームが雑誌やテレビと並列で存在していた今の10代のヒトとは全く違うだろう。学生時代よりはずっと社交的になったけれど、それでも人見知りや引きこもり傾向はあいかわらず。映画や展覧会はひとりで見たい方。根っこの部分はあまり変わっていない。

911や311、戦争や社会体制の変化など、大きな変化がヒトの考え方や生き方を変える場合がある。でも、それもやっぱり、未成年期に経験した人と、成人してから経験した人とでは、前者の方が圧倒的に影響が大きく、後者は変化できないような気がする。

そう考えると、ヒトOSは一旦リリースされたら一生、バージョンアップできないのではないか。
その時その時の新しい環境やアプリに対応するためのマイナーなアップデートはできても、
 三つ子の魂百まで。どんなに世の中が変わろうが、若い頃にプリインストール、刷り込まれた価値観は、根っこの部分で変えられないと思う。(私がガンコなだけ?) 唯一書きかえる方法があるとすれば、それは「洗脳」ということになるのだろう。

●異なるOSの運用方法
さて、OSがバージョンアップできないとなると、どうしたらいいのか?OSが古いことでの現状誤認、OSが異なることによるディスコミュニケーション
相手と意見が食い違う。どうしても伝わらない。先が読めない。

これらのOS起因のトラブルは、OSの違いにあるのではなく、OSというものを認識していないから起きているように思う。つまり運用の問題。

異なるパソコンが並んだ環境で、それぞれが違うOSで動いているのだと認識していれば、だれだって目的によって使い分けたり、機能拡張を充ててデータのやりとりを実現したりといった工夫をする。

ところがヒト同士となると、違うことを認識せず無理矢理同じアプリをインストールしようとしたり、自分と違うヒトOSを「壊れている」と切り捨てるようなことをしてしまう。

様々なアップデートパッチやアプリを、ヒトOSのバージョンアップだと勘違いしているケースも多い。「自分は●●について勉強して経験もあるから、充分わかっている」と自信ありげに言う人がいるが、例1のように「スマホを使っているから自分はわかっている」と勘違いしているような、本人だけわかっているつもりで、まわりとはずれている、なんてケースだ。

そう考えると、運用の方法は実に簡単。
自分のヒトOSと他人のヒトOSが違うことを認識していない人間の言うことは危ない。勝手に動作して不具合をまき散らす可能性が高い。「あたりまえのこと」とか、「普通そうでしょう」とか、まわりに「そうだよね」と合意を得ようとする人。そういう人間には注意した方がいい。

OSの違いをわかっている人は、自分がバージョンアップできないことを知っているから、様々なプロトコルや機能拡張を駆使する。それらは所詮、OSのバージョンアップでない、つまり限界があることを本能的に知っていから、無理なところは他のOSに任せる。任せる相手のヒトOSは理解できなくても、その後ろにあるヒトOSの設計思想を理解しようとする。自分の意見は「自分はそう思う」と、一般論にしない。そういう人間は信頼できる。


●教育という現場で
さて、自分のヒトOSはバージョンアップできないらしいという結果になったが、新しいヒトOSが作られる現場に立ち会うことはできる。ヒトのOSを左右する大きな要素が「教育」だ。

今、大学という教育の現場と、父という立場で、若い人たちのOSを構築する現場に立ち会っている。古いOSの僕ができることはなんだろう?と常に自問自答の日々だ。

古い設計思想の持ち主が、はたして新しいOSを設計できるのか?そんなこと無理だ。僕の価値観が学生や子どもに通用するなんて思ってはいなかったが、ヒトOSという考え方を適用してみると、逆にちょっと希望が見えた気がする。

僕がそうであったようにありとあらゆる混沌を混ぜ合わせて、はじめて新しいOSが誕生するのだ。 いいところもダメなところも、新しい設計思想の一部なんだろう。何がダメで、何がいいのか。教師とするのか反面教師とするのか。それは若い人たちが勝手に判断するのだ。コミュニケーション不全。価値観の相違。それがあってこそ、新しいヒトOSの設計思想が生まれるのだ。

自分のヒトOSの設計思想をただ、説明すること。理解して欲しいなんて思わないこと。善し悪しではなく、なぜこうなったのかを説明すること。できることはただひとつ、チョット恥ずかしいけれど「生き様を見せる」ということなんだろう。

未だに最新OSにアップグレードする踏ん切りがつかないMacで、こんなことを書いている自分は間違いなく旧世代ヒトOSで動いている。

 

初出:【日刊デジタルクリエイターズ】 No.3343   2012/10/03

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